石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第四節 極盛極治

元祿四年十二月二十六日綱吉綱紀に許すに、その老臣二人を叙爵せしむべきを以てせり。叙爵とは國守の稱を唱へ、朝臣の位階を授けらるゝをいふ。抑前田家に在りては、利家の時、天正十九年三月臣僚二人の叙爵を許されしを以て、村井長頼を豐後守に、篠原一孝を出羽守に任じたるを初とし、文祿三年には高畠定吉を石見守とし、中川光重を武藏守とし、その翌年には奧村永福を伊豫守に、神谷守孝を信濃守とし、後益多きを加へて、利長襲封の初年には凡べで十四人を算するに至りたりしが、彼等の相次いで卒するや又これを補ふことを爲さず。利常の時に於いて元和元年閏六月新たに本多政重安房守横山長知を山城守としたりしが、正保三年長知卒し、四年政重の卒したる後は、全く叙爵の臣を有せざるに至りしを、この命あるに及びて綱紀本多政長を請ひて安房守たらしめ、前田孝貞を佐渡守たらしめき。孝貞は後佐渡守を改めて駿河守と稱す。是の時老中牧野成貞は、幕府が漸を追ひて加賀藩の諸大夫を四人に増加するの意あるを傳へたりき。綱紀大に悦び、後柳澤吉保を介して速かに前約を履行せんことを求めしに、八年十二月更に一人を増すを許されて長尚連を大隅守となし、十五年四月綱吉本郷邸に臨まんとするに先だち、叙爵の臣を四人たらしむべきを命じたりき。是より先、本多政長及び前田孝貞は共に退老せしを以て、綱紀乃ち尚連の外に本多政敏安房守前田直堅を近江守、横山任風を山城守たらしめんと欲し、請ひてその許可を得たり。この後叙爵の臣四人あること加賀藩の常制となる。