石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第三節 白山爭議

牛首側と尾添側との爭議纔かに一段落を告ぐるや、牛首・風嵐の村民と從來之を支持したる平泉寺との間に内訌を生ずるに至れり。正徳元年三月落雷ありて御前の神祠を破りしかば、平泉寺は之を修營せんことを幕府に請ひしに、牛首村民にして白山神主と稱する山岸十郎右衞門・加藤權十郎及び風嵐の村民加藤次郎兵衞も、亦別に同一の願書を提出し、五に相排擠して神祠を獨自の支配に屬せしめんと努力せしが、幕府は共に之を許さゞりき。次いで享保九年、御前岳の別當室雷火に罹りて燒失せし時にも、平泉寺の之を再造せんとする出願は幕府の顧みる所とならず。この際牛首・風嵐村民が如何の態度を採りしかは文献の徴すべきものなきも、その後平泉寺は、近時兩村民白山神主と稱して牛王札・守寳印等を頒布し、參詣の輩より六道錢と稱して一人貳百文宛を徴收し、又は別當の支配に屬する六道室を宿泊の用に供する等のことが不可なるのみならず、白山は別當平泉寺の支配する所なるが故に、他に社家と稱すべきもの一人もあるべきにあらずと主張し、享保十二年十月彼等の亂行を停止せられんことを幕府の寺社奉行に歎願せり。寺社奉行乃ち牛首村の十郎右衞門・五郎右衞門及び風嵐村の新助を召して詰問せしに、三人は皆その社家たるべき理由を固執せり。然るに寺社奉行は、村長等が朱印領を有する平泉寺の支配を受けずして社家と稱すること能はずとし、梵字を書したる札及び守は社家の頒布すべきものにあらざるべく、京師の吉田家も亦村民に社家父は御宮の號を與へたることなしと回答したる等の事由を以て、平泉寺訴訟を理ありとし、享保十三年四月廿七日前記三人の外牛首村の新右衞門及び風嵐村の太郎左衞門に戸締の罰を科し、平泉寺も一山の管理を怠りて此くの如き爭論を再びすべからざるを嚴戒せられたり。