石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第三節 白山爭議

初め尾添・荒谷村民が、その地の幕府に還附せらるべしとの報を得るや、八月廿四日尾添の肝煎等十一人は書を加賀藩の吏津田宇右衞門に致して曰く、聞くが如くんば今次尾添村幕府の收むる所となると。顧みれば我等久しく加賀侯の恩澤に浴し、近年漸く資産の乏しからざるを得たるものなるが故に、今にして領主を易ふるが如きは固より欲する所にあらずといへども、敢へて私意を張らば、乃ち加賀侯の煩を爲すを虞れ、已むを得ず命を奉ぜんとす。但し將來福井侯の治に屬し、若しくは加藤藤兵衞の配下に歸せしめらるゝことあらば、斷じて我等の堪ふる所にあらざるなりと。既にして幕府は收公せる十八ヶ村を美濃國笠松の代官杉田九郎兵衞の管轄とせるを以て、十月五日九郎兵衞は白山山麓に來り、加賀藩の津田宇右衞門に會して境界・道路・橋梁・貢賦等のことを議し、十日を以て歸途に就けり。而して是等の諸問題中解決の最も困難なりしは出作地に關するものにして、遂に尾添村の出作地の石川郡に在るものは之を中宮に屬し、瀬戸村のものは木滑に屬せしめて、幕府領加賀藩領との交渉を避けんとしたるに、翌九年尾添・瀬戸の村民は、その出作地の石川郡に在るものが能美郡に在るものよりも却りて多きが故に、若し之を失ふ時は非常の困難を感ずべしとなし、本村の出作地たるを許されずんば、寧ろ村民を出作地に分かちて一新村を經營せんと請ひ、岡田豐前守も亦之を可とせり。因りて九月加賀藩は兩村民の領内に移らんと欲するものを收容することゝせしも、之を在來の出作地に置かずして、能登鳳至郡山是清、鑓川等に住せしめ、次いでその家屋建造の爲に資銀と木材とを配給せり。が彼等をかくの如き遠隔の地に移しゝは、啻り山是清等に空閑の地多かりしが爲のみにあらずして、復隣境との間に生ずべき交渉を絶たんどする意ありしに因るなるべし。

  乍尾添百姓共申上候。
 一、尾添村領分、公儀へ御上被成旨被仰渡候趣、不存寄仕合行當迷惑仕候。御代々御恩深御なじみと申、其上近年御介抱故手前も少宜罷成候故、何角に御請難申上存、色々御斷申上候得共、唯今私共何角申上候へば、加賀守樣御爲惡由被仰聞候付而、無是非御請申上候。然ば自然越前殿御裁判か、又は牛首藤兵衞手下に罷成候儀候者、御請は難申上候。以上。
                           尾添村肝煎
    寛文八年八月廿四日                  久左衞門等十一人
      津田宇右衞門樣
〔加州白山爭論一件〕
       ○

 出作高
 一、五拾四石七斗六升              尾 添 村
   百姓家數三拾壹軒     人數男女百五拾六人
 出作高
 一、四拾八石                  瀬 戸 村
   百姓家數拾軒       人數男女參拾九人
  高〆百貳石七斗六升
 右兩村百姓能州え被持高
 高
 一、百拾武石             [山是清分之高、但先規より所々に百姓 無御座近在七ヶ村より出作仕來仕候]
  内七拾八石             尾添村百姓之内家數廿二軒人數九十一人
   三拾四石             瀬戸村百姓家數拾軒人數三拾九人
 高
 一、三拾三石             鑓川村高之内近在一ヶ村より出作仕候
  此高え尾添村百姓之内家數九軒人數六拾五人
 右能州奧郡山方在々之内にて、山是清村・鑓川村高先規より持來高とは違申儀に存候。山是清は山畠所、鑓川村は山かせぎ有之所に御座候條、右兩所へ被遣可然哉と奉存候。(下略)。
 右之通改作御奉行詮議申上候。以上。
    酉九月十日(寛文九年)                        津田宇右衞門
                                 岡島五兵衞
      本多安房守殿
〔加州白山爭論一件〕