石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第三節 白山爭議

尾添・荒谷の二邑は、天正八年以降石川郡と共に佐久間盛政の領たりしが、十一年盛政の滅びたる後は前田利家の督する所となり、慶長五年よりは丹羽長重所領たりし能美郡諸村も亦その有に歸せり。然るに越前領山内十六ヶ村の者、常に加賀能美郡の者と親善なる能はずして、遂に物議を惹起するに至りき。その故は、尾添川の牛首川と合流して手取の本流となる所の左岸に加賀領河原山村ありて、その附近なる獨活平の地は固より河原山の所有たりしを以て、村民はこゝに耕耘するを常としたりしが、十二年越前領二口村民は突然來りてその自領なることを主張したる上、亂暴狼藉を河原山に加へ、牛首加藤藤兵衞も亦佛師野まで出張して二口村民に聲援を與へき。然るに河原山は二口の主張を肯んぜざりしかば、二口村民は更に加賀領三屋野に屬する枕尾以南の地をも自領なりと主張するに至り、十三年三月朔日吶喊して河原山の山上に群至し、銃丸を放ちて脅威せり。河原山の民乃ち之に應じオリノ峰に出でゝ爭鬪し、二口の新四郎・四郎三郎及び河原山の岩等之に死せり。是の事ありて後、加賀越前の兩は、共にその領民の獨活平に入るを禁じ、以て衝突を緩和し得たりといへども、彼等の反目嫉視は到底之を根本より除くこと能はず。殊に牛首・風嵐兩村民は、機に乘じて加賀領と爭はんことを企圖したりき。