石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第二節 前田利常の監國

天守臺築造と嫡孫婚姻の二大事既に終りたる後、利常は頗る心に安んずる所あり、この年九月十一日江戸を發し、二十三日小松に歸りしが、十月十一日玄猪の祝賀を擧げ、その夜八時分腦溢血を發して暴かに薨去せり。之を以て忌辰は十二日とせらる。因りて三宅野に於いて荼毗に附し、遺骨を金澤城南野田山に葬る。三宅野の葬送は菅君雜録に之を十月廿二日に在りとするも、前後の事情を案ずるに聊早きに失するの感あり。

 十月十一日の夜御膳も上り、其上に亥の子の御祝の餠を上る所に、例の通には不上。御夜話過て何茂罷歸、御寢成申迄は、毎夜幸若九左衞門が舞を御間被遊。其夜も舞濟て九左衞門罷歸て、八時分の事なるに、泊番の御子小姓高澤牛之助・藤田三十郎御起し被成て、手燭御乞被成、御雪隱に被入。其内に御手水牛之助持參、無程御出被成、品川左門呼に可遣御意也。承て罷出時三十郎、永原權太夫泊番なるにより御氣色惡しき由申聞に依て、權太夫御前に罷出と御藥箪笥乞せらるゝ。持參仕て上る。御手をば御懸被遊といへども、御取出し被遊事不叶。權太夫見申て、抱上奉て御藥を上れども、御口より出て不通。左門伺公申よし申上れども、早御正氣なく被見申に付、岡本平兵衞呼て御腹奉伺に、早御腹被離と申に依て驚、小松中え申觸、何茂登城仕候時は七半時也。
〔拾纂名言記〕
       ○

 其内に高野山の常燈の火も山本彌次右衞門持參し、三宅野に火屋を立、垣を結廻し四門を建、白土にて上ぬり、白綾の水引等其規式殘る所なく善盡して、御名代(綱紀)の御燒香は奧村因幡に被仰付富山侍從利次公を初奉り、利治公(大聖寺侯)御名代の燒香は神谷治部、其外御一門老中何茂三宅野に充滿す。山崎虎之助・國澤少次郎・杉江兵助・別所三平四人を四天王と名付く。御前宜人々成故に、落髮して三宅野の御供役儀等相勤む。導師は寳圓寺、念誦は國松寺、其次第規式夫々に相濟、何茂下向退散也。杉江次郎左衞門・野村半兵衞、夜通しに野に明して相守る。厭離穢土欣求淨刹の御有樣を見屆奉り、翌日御遺骨を靈器に納め奉り國松寺へ入奉りて、高野山へ御送行の御用意とぞ聞えける。
〔三 壺 記〕

前田利常畫像 侯爵前田利爲氏藏