石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第二節 前田利常の監國

清泰院を失ひたる利常は、更に力を幕府の爲に盡くして、その新たなる好感を惹き、以て相互の關係を親密にせざるべからざりき。偶明暦三年九月二十七日幕府は、諸侯に命じて江戸城の諸門及び橋梁修營せしめ、又加賀藩をして前年に罹りたる天守臺築造せしめき。利常これを以て報効の好機至れりとなし、萬治元年三月十四日普請に着手し、五月四日石垣營築事始の儀を行ひしが、殊に獨力この大工事に從ふの光榮を悦び、工夫五千人を領内より召し、家臣をして各食祿に比例して費用を致さしめ、又工人の着する今織(イマオリ)の羽織五百・伊達染の帷子數千を調へたりしが、事閣老の聞く所となり、他の諸侯が皆之に倣ひて驕奢を爭ひ、爲に無用の資を費さんことを慮り、窃かに藩吏に告げて是等の衣服を用ひしむることなからしめしも、尚利常は孫綱紀と共に編笠を被りて屢工事場を巡視し、以てその誠意を示したりき。江戸城天守臺は、慶長十一年淺野・黒田兩家が初めて幕府の命を受けて築造したりしものにして、伊豆石を用ひ、その高さ八間なりしを、今次に在りては花崗石を以て七間半に築き上げ、その面積一は二十一間四方、一は十八間に十二間とするに在りしが、の御扶持大工渡邊伊兵衞・笹田覺左衞門・横井太郎兵衞・中山甚六、及び利常に屬せる大工中村惣左衞門・石切勘七等をして實務を督せしめ、九月十八日竣工せしを以て、幕府の大工頭鈴木修理の査檢を求めしに、修理はその壁面整齊にして毫も凹凸出入する所なきを見、大に伊兵衞の技の優秀なるを賞したりき。次いで晦日將軍家綱は自ら之を巡視し、綱紀その先導を爲せり。

 或時御城石垣を、御大名衆へ御頼被遊沙汰御座候由、御出入之衆被申候處、誰々被仰出候哉、加賀守綱紀)抔に而は無哉。加賀守抔は御指除、又何とも重き御用有之時分は、第一に御頼被成にて可之候由御意(利常)被成候處、其後天守臺の御普請加賀守樣へ御頼被遊候由被仰出候。又大手より奧の方御門等の石垣は、細川越中守(綱利)殿へ被仰出候由御聞被成、細川も能場所を請取被申候。天守臺と申は大成事に候。先年は黒田・淺野兩家へ被仰付候處、加賀守は一番大名の事故、兩人の勤所を加賀守迄に被仰付候。是は大儀成事に候得共、一人に而勤候儀は氣味能事に而候由、御意被成候。
〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕
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 一、御天守臺普請之時、加州より役人・小者等一萬人參り居申候。墨田川の邊に夥敷小屋懸、其所に罷在候。大勢病人等有之に付、玄角に療治爲致候樣被仰出候。大釜に而藥煎用申候。死申者も多く候由。庚子(享保五年)三月八日御夜(綱紀)話也。玄角外にも御醫者被仰付候得共、御覺不被遊旨御意也。
 一、右御普請初之日は、微妙院(利常)樣には御出不遊候。相公(綱紀)樣迄御出被遊候。きやりし六人猩々皮の羽織にて、其外も目立申裝束にて候。鳶之者も二三千人有之候由。神田橋の筋御堀之上、石垣五拾間計崩申候。其下迄にて石を廻し、其所より引揚申候。[此所に御普請小屋 數十間懸り申候。]また今の戸田山城守殿屋敷向之御堀之上石垣も崩、御堀に大材木にて橋懸り申候。梅林坂之邊も石垣崩、拾間計之橋懸り申候。七月二十九(七)日[相公樣御婚禮の 日に而御座候。]梅林坂の邊石垣崩申所へ、大石を引懸候所石少々ひづみ、鳶の者・役人・小者坂よりなだれて大あやまち致し、死人も御座候。此所に茂小屋懸り申候。後には神田橋邊の小屋はこぼち候と也。右同時に拜聽也。
 一、御天守臺普請出來之時、嚴有院(家綱)樣被成上覽被遊候。此時相公樣御十六之御年也。御先立被遊候樣にとの御事に御座候。御草履召申儀難成由に付、御天守臺石垣之邊は門外より御はだしにて御先立被遊候。石壇を御登、上迄無殘上覽、御下り被遊候時茂御先立被覆候。夏(秋カ)之儀故御足袋も不召、栗石に而御難儀被成候。兎角は公方之御先立は、何方に而も御草履成不申候間、當時肥後守(保科正之)樣並松平下總守(忠弘)殿、上野増上寺紅葉山等御成之時分御先立被成候間、御すあしに而御難儀可成与被思召候由。己亥(享保四年)正月廿八日御意也。
〔中村典膳筆記松雲公御夜話〕
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 五月四日(萬治元年)、松平加賀守綱紀が奉りし天守臺石垣營築の事始により、久世大和守廣之もて綱紀に三種二荷給ふ。
 五月十日、小松中納言利常卿老躰にて、日々營築にまかり指揮するを勞せられ、御側久世大和守廣之もて菓子を給ふ。
 六月二日、松平加賀守綱紀・細川越中守綱利が役夫等に香需散を下さる。
 六月十八日、本城石垣營築のさま御覽にならせたまふ。松平加賀守・細川越中守綱利・丹羽左大夫光重並に大膳長次・中川山城守久清並に佐渡守久恒・戸田采女正氏信かしこにて拜謁す。各炎暑の折からなればこと更慰勞の御詞を給ふ。普請奉行の輩へは心いれ巡察すべき旨面命あり。綱紀が家司本多安房守(安房政長)にも御詞をかけらる。
 八月十八日、松平加賀守綱紀より天守臺の角石をけふ安置せしむね注進す。
 八月十九日、小松黄門のもとへ御側土屋但馬守數直もて梨子一籠給ふ。こは加賀守綱紀が奉はりし天守の角石安置し、並に黄門衰老の身をもてしば〱その地にのぞみ指揮するを慰せちれてなり。
 九月三日、小松中納言利常卿先に就封の暇だまはりしかど、加賀守綱紀天守臺の營築奉はりたるにより、おのれも封地に赴かずしば〱經營の地臨督せしに、臺礎既に告竣によて歸封せんとてまうのぼりたれば勞詞を加へられ鷹二聯給ふ。
 九月十八日、天守臺過半成功により、使番西尾藤兵衞政氏を構造所に御使し、松平加賀守綱紀に梨子一籃給ふ。
 九月晦日、本城經營の地を巡視し給ふ。助役の輩拜謁す。松平加賀守綱紀には御乘物より下給ひて御詞かけられ、綱紀先導して天守臺御覽あり。
 十月九日、松平加賀守綱紀天守臺石壘成功して拜謁し、勞詞を加へ給ふ。其家司本多安房守(安房政長)・長左兵衞(元連)・奧村河内(榮政)・奧村因幡(庸禮)・今枝民部(近義)等百枚・時服十・小袖六づつ給はり、その他の家司時服給ふ事差あり。
〔徳川實紀〕
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 昨晦日公方樣御殿守臺へ被成、一段かつかう能出來仕由御懇之上意、家禮之者共へも被御詞候。永々被御逗留、被御情候故首尾能早速御普請相澄、忝仕合奉存候。爲御禮使者申上候。仍而目録之通致進上候。雅樂殿前小屋廿八日こぼち澄申候。はと場石垣廿九日にすきと出來仕候。此旨宜有披露候。恐々謹言。
                               松平加賀守
    十月朔日                         綱   利 在判
     品川左門殿
〔大鋸氏所藏文書〕