石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第二節 前田利常の監國

利常の初めて改作法を施行したるは、慶安四年五月石川・河北二郡に於いてせるに在り。蓋し農民の最も強硬なるもの、領内加賀越中を最とし、而して二國の中に在りては石川河北郡を首とす。是を以て利常は先づ之を至難の地に試み、然る後全封内に及ぼさんとしたるなりといふ。利常の之に着手するや、先づ吏をその地に遣はして地味の品等を定めしめ、前年來の未進年貢米より借受けたる敷借米の元利は共に之を免除し、村民の負債を調査し、利子の制規に超えざるものはより之を債權者に辨償し、その他は旨を諭して棄捐せしめ、向後村民間に於いて金品を貸借するを禁じ、無頼の遊民を懲戒し、未墾の田野を開拓することを奬勵し、力田の者に賞賜する等の施設を爲せり。加賀藩に在りては數村を支配する大庄屋を十村(トヲムラ)といひしが、彼等は自己管内の區域に改作法を施行せらるゝ際、城中に召されて事務に參與せしめられしに、その居る所侯の居室に接近し、往々にして侯の聲咳を聞くことを得べかりき。是を以て皆その待遇の甚だ厚きを喜び、精を竭くして目的の貫徹を計れり。以て利常改作法を施行するに如何に熱心なりしかを見るべし。後農民漸く改作法の利便と侯の恩徳の大なるを知り、相戒めて業を勵み、遂に自ら進みて田數の増加せることを申告し、或は貢租の増率を求むる者すらあるに至れり。手上高手上免といふ者即ち是なり。利常事を始めしより費す所の金十七萬兩に達し、明暦二年六月改作法略成就したるを以てその奉行を發せり。既にして全領内に於ける前年の貢租皆濟の良結果を得たりしかば、藩吏は急使を發して之を在江戸利常に告げしめき。健歩の至りし時既に亥刻を過ぎしが、利常の之を聞くや直に老中松平信綱に報ぜしめて曰く、曾て内申せし所の改作法に關しては、久しく卿等の配慮を煩せり。今や則ちその目的を達することを得て、藩吏領内の納租皆濟せるを告ぐ。是を以て速かに之を卿に報ずと。使者その甚だ急激なるに驚きしも、命を奉じて松平氏に至りしに、信綱は起き出でゝ自ら使者を見、利常改作法施行に成功せるを稱して曰く、侯の報ぜし所は直に之を將軍に以聞せざるべからず。然れども今夜既に深更なるを以て、將に明旦を以てすべし。將軍にして若し之を聞かば、亦必ず侯の偉業を成せるに驚喜すべしと。是に於いて使者初めて事の重大なるを悟れり。舊記この事を明暦三年四月に在りとするは疑ふべし。恐らくは同年十二月以後に在るべきなり。後海内の諸侯皆その良法なるを知りしかば、の算用場の吏有瀧忠右衞門・須崎三郎右衞門が事によりて祿を褫はれたる時、高田侯は忠右衞門を、福井侯は三郎右衞門を聘し、各その領内に之を實行せんとせしも、皆目的を達せずして已めりといふ。

 秋中(慶安三年)に成て、金澤小松の侍大身小身共に、大い成すりきり人を御吟味被仰付除知・人すべ等、並に家を賣道具を拂ひ、或は御貸銀拜借被仰付、何共申ひらきの成がたき者は自害するもあり。跡目不仰付人も有。子小姓組には家老を與力に被仰付儉約の儀を被仰渡も有。足輕を付させられ檢約被仰付も有。足輕等は手前能者五七人有之て、御褒美として子壹枚貳枚被下もあり。其の上に給人共手前に百姓共年々未進等積りて、給人損料の者ありて、百姓中御吟味被成、御貸米を被仰付、未進を收納仰付もあり。夫より百姓共耕作に情を入油斷なく作付たる者ならば、指て未進も有間敷と思召、委細に被聞召て、難澁に及ぶ在々の百姓に作食等も御貸付被成、御取立とぞ聞えける。
〔三 壺 記〕
       ○

 金澤(慶安四年)にて江守半兵衞・堀與左衞門を上奉行にて、右三人(笹田太右衞門・村田長助・栗田太右衞門)に足輕十五人被下、石川・河北兩郡の内難澁の在々を野廻りして耕作被仰付、作食・農具・人馬の入用被相渡、御取立被成所に、立毛の地をつゞまやかにして江堀・野毛・石塚等も開發し、寸地も損毛無之樣に致させ申所に、過分の未進等出來すべき道理なし。其年の風俗を他にくらべて見る所に、作毛倍して見えければ、其翌年より多羅尾寺村(新川郡)九郎左衞門、島尻村(新川郡)の刑部、島村(射水郡)の次郎右衞門、戸出村(礪波郡)の又右衞門、二塚村(射水郡)の又兵衞、其外三ヶ國の年寄たる長百姓どもに奉行人を添て被仰渡、段々に作食を被相渡、五三年の内には御分國御一統の御改作とぞ成にける。誠に難有被成樣かなと武士も百姓も忝奉存、誠を盡し業々を勤ければ、農人といへ共義の道有にや、未進毛頭仕ざるのみならず、分限相應に高・物成を全うして、未進・隱田私曲の申分はなかりけり。
〔三 壺 記〕
       ○

 改作方の御用は、第一伊藤内膳[重 正]・菊池大學[直 辰]相勤候。改作奉行は山本清三郎・河北彌左衞門・岡田左七抔相勤申候。此外にも有之躰に御座候得共、其儀は慥に覺不申候。此等の人々は、朝も年寄中より早罷出、十村等を集置、夫々御用の筋を申付、又は人々の前をも承屆申躰に相見え申候。右之十村共は、裏御式臺の脇、板の間に莚を敷候而有之所に相詰罷在候。其所え改作奉行罷出有之、御用の品承屆又は申付候躰に有之候。其席え久越(中村)抔罷在、御用の品承屆、御前へ罷出、幾度も往來仕候。其所は、御前へも程近く御座候に付、久越並に十村等の聲も聞え申候。品により久越大聲をあげ呵申事も御座候。其時分は、何事に而候哉、又久越が負けて來候哉抔と、御笑交御意被成候。
〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕
      ○

 有時左門(品川)・久越え御意被成候は、百姓共を程近指置候抔と申者有之由に候。夫は何茂しらぬやつの申事に候。加樣の大き成仕置を申付候時分は、次第を立遠く差置候而は、細事埒明申儀に而は無之候。百姓等にても上え近く成候と存候へば悦び競ひ、志まで違ひ進み申物にて候。左候得ば仕置等も仕能候。口脇の白いやつばらが、土民を程近く指置候と我等事も譏申躰と承候由、御意被遊候。
〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕
       ○

 明暦元年の春御參勤前、品川左門朝御城え罷出候時分、御前(利常)近く被召、奧の御居間と表の御居間との間え、御側近被召。其時分私御前(藤田安勝)に相詰罷在候得共、御隱密の御用と奉存退候得ば、其儘可罷在由御意に而御座候。左門能致合點、玄蕃(津田正忠)・對馬(前田孝貞)・因幡(奧村庸禮)可申聞候。此改作方之儀は、數十年苦勞仕、色々工夫を以申付候處、此節に至成就して大慶安堵成事に候。此仕置の元を得と合點仕間敷候。終に只今迄誰にも不申聞候。玄蕃・對馬・因幡抔も推量には何と存候哉。百姓共の仕置は心易儀と存候哉。一圓左樣に而は無之。此三國は一揆國に而候。信長の時分、一向宗の門跡信長に敵對して、北國一揆發り候。信長より所々夫々縮(シマリ)之城主を被措置候。加賀越中は別て百姓心だて惡敷、國主にも手ごはり申候。能州は左樣にも無之候。取分石川・河北は、殊の外横着者共山入に一場〱に罷在、何廉申時は早取籠申候。就石川・河北は世間にも荒者と申候。佐久間玄蕃を被指置候。石川より上の方は、柴田修理持分に而有之候。柴田と佐久間はをぢをひに而候故、互に申談仕置被仕候。越中は佐々内藏功、能州は大納言(利家)殿え給候。其以後三國此方の領分に成、大納言殿・故肥前(利長)殿無油斷嚴敷被申付候。我等の代に成候而は次第に治、閙敷事無之、國の仕置迄に成候故、何とぞ仕樣も可之事と存、横着者・手ごはり候者をば、首を刎、はりつけに申付、嚴敷仕置仕候に付而、次第に宜敷成申候而、其後は氣遣仕程之儀は無之候。然共油斷成不申候。最前は侍中に遣し置候知行分も中々定の通に納所仕事は無之、半分程も未進仕迄に而侍中殊の外致難儀、年々暮には侍中より夫々知行所え催促人を遣直、取方を責申候得共中々埒明不申候に付而、百姓を呼寄すねを挾み、梯子にあげ、つけ水を呑せ責め候。就夫加樣の儀を氣の毒に存、色々工夫を以申付候得者、加州・越州の六ヶ敷所々も下知に順ひ心易成候。能州は人物律義に候故、心易國にて候。最早改作の法も埒明候に付、向後無相違收納仕候樣免を定、所附を侍中え遣候。最前は何廉致違背候處、唯今は所に寄百姓の方より免上可申と申出、手上免を願候。是百姓中心立直り、此方の氣に入る樣仕度と存故にて而候。是が唯の事に而成申物にては無之候。我等數十年苦勞して色々工夫を以申付候得ば、おのづから成就いたし候。改作方の儀、加賀守綱紀)自身の仕置に罷成候時分、後々に至無相違樣に可仕候。加賀守年若に候間、何茂儀別而無油斷心掛可申候、何茂が中にも仕置方の用事不仕時分は、替役の者え可申傳候。百姓には油斷の成申事にては無之候。奉行・役人の心の内を察候而、其樣子に寄早心を替申物にて候。唯今此上に成候而は、致嚴敷跡々の樣に仕も不宜候。又和過候得春早奢り申者に而候。此處仕置の肝要に候。最早此方の存儘に罷成儀に候間、此上は餘り嚴敷不仕が宜敷候。郡方の事是程心易仕候儀、加賀守え大成働と存候。追而此等の用事勤候者可申付候。郡方仕置之儀隨分無油斷加賀守能致承知候樣相心得、何茂可申談候。未左門にも終不申聞候得共、筋大形にも合點仕可罷在候由、御意被成候。
〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕