石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第一節 三藩鼎立

かくて一門の繁榮、前途益刮目して見るべきものあらんとせしに、翌々正保二年四月五日老中酒井忠勝以下幕吏數人を江戸の辰口邸に招き饗せしとき、宴半ばにして光高は卒倒せしまゝ卒し、人をして眞に皇天の無情なるを嘆ぜしめき。十九日光高の柩金澤に達し、五月十目荼毗して天徳院に葬る。光高の死に就きては、世或は幕吏にして光高の才を忌むもの之を鴆せしなりといひ、或は近侍の士之を弑せしなりと傳ふるものあれども、皆光高の壯年にしてその死の突然なりしを怪しみたるより起れる訛傳に過ぎず。武野燭談に、越前宰相忠昌の邸光高の舘と相對す。忠昌常に大酒を好みしを以て、醫師某之を諫めたりしに、忠昌は『むかうなる加賀の筑前下戸なれど三十一で病死をぞする』との狂歌を以て之に應へたりしといへるも、亦採りて旁證とすべく、光高の弟利治加賀老臣本多政重横山長知に與へたる信書にも、『御胸脚痛疾指出、一兩度吐逆被成、御目舞、其儘御絶候。』とはいへり。

 筑前守(光高)殿、今五日之朝辰之刻、御胸御痛疾指出、一兩度吐逆被成、御目舞、其儘御絶候御事、不是非候。中納言利常)殿御愁傷御取亂可推量候。就金澤小松家中面々不誰々、末々者迄一人も爰許爲見廻參間敷之旨堅可申付由、中納言殿就御内意、我等方より申入候。爲使者立兩人遣之候。委細佐分又は高山藤兵衞口上可申候。恐々謹言。
    四月五日(正保二年)                       松 飛騨守前田利治
      本多安房守殿
      横山山城守殿
〔古文書大全〕
       ○
追悼加賀羽林君詩並序(正保二年)         林  信 勝
 去歳四月五日之朝。羽林菅君饗乃父黄門于茶寮。同伴一兩輩。座未闌。君在壁後。嘔吐眩暈暴卒。人皆驚遽之餘。雖蜜藥使之。遂至起。年三十一。鳴呼惜哉。君嘗招余。時々迎接。其暇日或講聽大學中庸。或講論語而終編。且晤語之間乃父在。則雖斯行。然其志可以觀乎。天若假之年。則其前程不測也。况其治國撫民之政。世既稱之乎。而今如此。嗚呼惜哉。頃余臥病。居然追慕之。賦律詩一章云。
 吉凶壽夭問蒼天。天道不言誰使然。趙晉讀書匡胤側。穆生嘗醴楚王筵。青年早作北州伯。白日俄爲上界仙。偶遇士林萎茶際。滿襟老涙浥華顚
〔事實文編〕
       ○

 三月廿八日利常江戸御着の日、光高板橋迄御迎に被出、御行列見ゆる時分に成、光高公御馬より飛下り、御駕籠の傍へ走り付せらる。利常公も御乘物より下りさせ給ふ。御機嫌能御著恐悦奉存由被仰上ければ、其方御無事珍重存候。早々先へ御越候へと御意有ければ、奉畏候。御先へ罷越可申候、御屋敷には内藤外記・高木筑後守被待居候と被仰上ければ、心得て御申候へと御意被成、御乘物に召、御下屋敷へ入せ給ふ。御門の下に犬千代綱紀)樣御座なさる。利常公御乘物の戸を開かせられ、御言葉を懸給ひ、御屋形へ入せ給ひ、御屋敷(本郷邸)にて御膳等も相濟、御上屋敷(辰口邸)へ御同道にて御著被成けり。同四日(四月)御口祝の御振廻過て、翌五日には酒井岐守(忠勝)殿正客にて、小堀左馬之助殿・酒井雅樂頭(忠世)殿、其外御一門方御上屋敷にて御振舞相究。利常公へも御入被下候樣に被仰上處に、昨日早朝御祝儀相濟、今日は昨日の御困旁にて御斟酌に思召の由御返事被成けれ共、是非に御出被遊御挨拶成下候はゞ忝可思召との御事にで、五日に御上屋敷へ御用被成けり。酒井岐守殿・宮城越前守(和甫)・小堀左馬之助殿・溝口金十郎殿・岡田將監殿・松平安藝守(光晟)殿・織田出雲守(高長)殿・中根壹岐守(正盛)殿・内藤外記殿・高木筑後守殿・前田右近(利意)殿兄弟・溝口源右衞門殿・同孫左衞門殿・横山内記(知清)殿・本多帶刀(政朝)殿、何茂表御座敷の御振舞御膳も相濟、御酒宴半に光高公御目まひの心地にて、御正氣を取失はせ給ふ。何も肝を消、興覺てぞ見えける。安藝守殿後を御抱被成、利治公は御額を持せられ、御氣付藥・針灸等取々樣々の御あつかひ、御醫師玄琢法印被召寄、灸治可成とて寸法のために拔穗を乞被申ければ、青木權十郎心得て元結を引拔、押延て渡しけり。灸を被成けれ共次第々々に御面相も替らせ給ひ、御客衆を初何茂あきれ果て、言の葉もなかりけり。御奧方へも聞えければ、御前(清泰院)樣あつと宣ふ御聲の下より、すでに絶入らせ給へば、御藥御氣付とてあわてふためき騷動す。今朝の御膳もいまだ不召上、何茂難儀に存奉り、光高公少し御氣付せ給ひ、を上り候はんとて御奧にて拵へ、御膳を表へ遣はしけり。其時御前樣にも御正氣付ければ、御相伴にを上らせ給へとて、御局岩崎・今井・松村など取々に進め奉り、少し上らせ給ひけり。(中略)。青木權十郎利常公の御前へ出、謹で申上げるは、乍恐御嘆の儀言語に絶し奉る。去共左樣に御歎被成候ては、下々は定めて長夜の闇に成計に御座候。犬千代樣御座被成候上は、御力を被添候はゞ難有可存と申上る。其時實もと思しけん、御涙を押拭はせ給ひて、奧へつゝと入らせられ、御前樣に御意被成けるは、犬千代いまだ幼少也、筑前(光高)殿は居不申、今は其御方より外に便なしと、御袖を御顏に押當てさせ給ひ御嘆き被成ければ、御前樣わつと計にて早たえ入らせ給ひ、惣女中は一度に聲を上、御殿もゆるぐ計に歎きけり。其内に御前樣の御看病を仕も有、利常公は神田(本郷ニ同ジ)へ入らせ給ひて、三日御食事上り給はず。江戸中は御上屋敷八重洲河岸馬乘物幾千萬、武家町方おしなべて此君を惜み奉り、袖をしぼらぬはなかりけり。金澤飛脚立て、御分國は不申、道中宿々馬繼まで上下老若共に、一子の別れは物かはと歎きしたひ奉る。坂本に御人をば置れ、金澤並國々よりの弔衆を帳に付押留返しけり。利次公は先達而江戸へ御著府被成、利常公に御目見被成けれ共、何の御挨拶もましまさず。夫より御遺骸を加州へ送り奉る御用意を被成けり。
 尊骸を金棺に納奉り、金澤へ送り奉る。御供の人々には、青山織部・宮崎彌左衞門・脇田小平太・石黒左近・伊崎彦兵衞・矢部覺左衞門・氏家久兵衞・加藤半右衞門・長谷川三右衞門・古江五兵衞、其外御歩行(オカチ)・料理人・板前、御泊々にて御靈供を備へ奉り、廣徳寺(下谷)より出家御供し、毎夜御經讀誦し奉る。金澤へ御著、天徳院へ移し奉り、御葬送の規式相濟、御遺骨高野へ送奉る。其時の御供には、金澤より前田志摩、小松より小幡下野と有之所に、下野病氣に取結び、寺西若狹に相替る。富山より近藤甲斐、大正持大聖寺)より才監物也。其外歩行・料理人何茂御供致しける。高野山天徳院にて御法事御執行、御位牌・石塔造立し奉り、何も罷歸けり。哀成ける有樣なり。
〔三 壺 記〕

前田光高詠草 男爵長基連氏藏