第三章 加賀藩治恢弘期
第一節 三藩鼎立
寛永十六年三月利常江戸に往きしに、光高は是より先府邸に在りしを以て、出でゝ父を板橋に郊迎せり。利常、光高を見て謂ひて曰く、這次長途の旅行幸にして恙なきを得たり、汝意を安んじて可なり。且つ余今汝の爲に齎す所のものあり、亦以て汝を喜ばしむるに足らんと。光高恩を謝し、速かに之を觀んことを希へり。既にして利常藩邸に入りしに、光高又問ひて曰く、先に侯の佳貺ありと言ひしものは果して如何の物ぞやと。是に於いて利常實を以て告ぐらく、余の今次參府せしはその意將軍に謁して骸骨を乞はんが爲なり。若し幸にして允さるゝを得ば、加賀・能登・越中三國の領土を以て汝に贈らんと欲すと。光高、利常の未だ甚だ老いざるを以て之を信ずる能はず、以て利常の戲言を弄するなりと思ひしに、後數日を經て利常は再び之を語れり。光高乃ち利常に告げて曰く、頃者侯屢讓國の事を言へり。若し眞にその意あらば、光高私かに請ふ所あらんとす。抑封國の讓授は重大事件なり。之を受くるもの何ぞ必ずしも光高のみに限らんや。今光高に二弟利次・利治の在るあり。宜しく三子の才を選び智を測り、能く大國を治むるの器量あるものをして繼がしむべきなり。侯の明敏を以て擇ばゝ、光高之に當らずといふとも毫も恨むる所なしと。利常之を容れず、その宗家の主たるべきものは固より長嫡たらざるべからざる所以を諭したりき。幕府乃ち五月十六日堀田加賀守正盛を使として利常の請を許すの意を告げしめ、次いで六月二十日光高に襲封の命を下せり。この日將軍家光は光高の岳父なるを以て、特に親しく告げて曰く、卿の父齡未だ知命に達せず、而して夙く大國を卿に讓れるもの、その恩甚だ渥しといふべし、卿必ず忘るゝこと勿れと。光高命の辱きを謝し、父の請ふ所を許されたるは亦大に父の喜ぶ所なるべしといへり。利常又請ひて、次子利次に十萬石を割きて富山城に居り、三子利治に七萬石を頒ちて大聖寺に舘せしめ、三藩鼎立して緩急相援くるの計を爲し、自ら致仕領廿萬石を領せり。是を以て光高の領する所は八十萬石餘を殘し、而して政務の重大なるものは必ず先づ老侯に問ひて後之を處決したりき。
今二十日御城え我等・筑前守(利常・光高)被レ爲レ召、内々訴訟之通御前(家光)相濟候。我等儀歳も未若く、不レ逃儀候得共、台徳院樣以來連々訴訟申上候。其上此頃は病者に罷成候間、被二仰出一御延引被レ成候ば氣掛りに茂可レ存旨被二思召一、養生のため旁如レ斯任二申上一候旨、御直の上意辱仕合難レ有御事に候。筑前守知行八十萬石、淡路守(利次)十萬石、飛騨守(利治)七萬石、殘處隱居分被二仰付一、我等・筑前守可レ致二在江戸一の由是又被二仰付一候。故肥前守(利長)殿隱居分十九萬石の内十七萬石、淡路守・飛騨守え被レ下、我等儀故肥前守殿御隱居國に被レ爲レ置候ば、知行分無レ構可二罷在一候。替々在江戸仕候樣に被二思召一候間、隱居分知行高可レ被レ下と申上候處に、右之通被二仰渡一候。家中人持面々・物頭中え、此段可レ被二申聞一候。謹言。 六月二十日(寛永十六年) 肥 前(利常) 本多安房守(政重)殿 横山山城守(長知)殿 〔越登賀三州志〕 |