石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第十節 社會種々相

士風の頽廢は、利長治世の末期より初りたるが如く、歌舞伎者と稱する侠客めきたる者を出し、その弊害決して少からざりき。利常の時に及んで、金澤及び高岡にとの徒の横行するもの多かりしかば、慶長十五年六十三人を捕へて斬に處し、首魁小將組の士長田牛之助は神尾之直の家に於いて、牛之助の弟乙兵衞は水原左衞門の家に於いて各屠腹を命ぜられき。浪人石原鐵次も亦その徒なりしが、一身の危急なるを知り、上國に脱走せんとして大聖寺の關門に至りしに、近藤大利の家士追及して之を斬れり。同十六年六月の法令に、辻斬立札・落し文・辻立・辻うたひ・辻尺八・辻相撲・頬冠り等を禁制したるは、亦皆是等の歌舞伎者若しくはその惡風に感染したるものゝ所爲なりしなるべし。此の如く嚴に制裁する所ありしに拘らず、士人中には歌舞伎者に祿を與へて寛濶を誇りたるものありたりと見え、十七年三月歌舞伎者を召抱へたる者に、知行萬石以上なれば子三十枚、以下遞減して知行二千石乃至千石なれば子二枚の過怠金を徴するの令を布き、又大髭を蓄ふる能はざらしめ、刀は欛・鞘とも長三尺七寸、脇指は同じく二尺五寸を超ゆべからずと定めたりき。然れども異樣なる扮裝を爲して他の注目を惹くことは、獨歌舞伎者のみにあらずして、藩侯自身も亦時代の好尚に隨ひ、知らず識らず之を奬勵するの弊に陷りし形跡なしとせず。即ち寛永八年八月利常は、その小姓に年長の者多くして行裝の華美ならざるを憂へ、特に大橋市右衞門に命じて、嫡子にあらざる子弟の長身肥軀なるもの三十餘人を選拔せしめ、十二月その江戸に赴くに當り、皆薄鼠又は空色の綿衣を著、梅華皮(カイラギ)の鞘に金鍔を裝ひ、その他好みの大刀を帶び、二尺一寸乃至三寸の大脇刺を添へ、腰に小なる馬柄杓と瓢箪とを下げ、繩綯ひの手拭を挾み、乘輿に先だちて進ましめしことあるが如きは是なり。