石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第十節 社會種々相

遊女の初めて記録に見えたるは元和六年に在り。この時淺野川の下流より新川を掘鑿し、石川郡宮腰・大野・粟崎等より直に物貨を城下に運漕し得べからしめ、因りて之を堀川といひ、その終點を揚場と稱したりしが、附近忽ち殷盛の區となりて妓樓軒を列ねたりと傳へらる。是より後寛永中に入りては、城下の所々に遊女あり。好色の輩爲に金を濫費し、遊興の資を得んが爲に天狗頼母子の法を案出したりき。是に於いて一攫千金の利を得るものあり。又は恒産を破りて盜賊に變ずるものあり。無頼の青年等亦力士藤繩といふ者を頭首に推し、倉庫を破壞し金品を奪掠せしが、事遂に發覺して刑せられき。乃ち此くの如く風紀の紊亂せし理由を、賣色の徒あるに因るとなし、町奉行に命じて之を禁制せしめしに、又犀川の惣構に風呂屋を營み、湯女を抱へ置きて淫をがしむるものを生じ、藩士中村刑部に屬する足輕の寡婦にして痘痕媽(イモカ)と呼ばれたる者も、亦その娘きちの外多數の婦人を賣女として嫖客に接せしめしかば、吏之を知りて風呂屋及び痘痕媽の一族を泉野に於いて磔刑に處したりき。是より後寛永五年八月廿三日附の金澤町中定書には、『一、於町中傾城並出合屋堅く御停止之事。一、當町風呂屋遣女之事、妄之作法有之に付ては、宿主可曲言事。』と載せ、十四年三月廿五日附の定書にも亦之を繰返して嚴に取締る所ありしに、その弊暫く著しからざるに至れり。