世態の漸ぐ寛縱に流れたる結果は、
藩侯に近侍する
兒小姓に踊を練習せしむるに至れり。即ち
寛永十七年
利常が將軍家光をその
江戸邸に招請せしときにも
兒小姓をして舞踊せしめ、その後家光の
上野南光坊に臨みし時、酒井
讃岐守邸に赴きしときに於いても、並びに老中の命によりて
利常はその
兒小姓踊を台覽に供し、
金澤に於いては
利常の在國して
年賀の禮を受け終りし時、
能樂を奏せしむると共に
兒小姓踊を演ぜしめ、家中の士を初とし神職
僧侶に至るまで皆之を
觀覽するを許したることあり。