石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

思ふに金澤の地名は、その起ること古きに在るべしといへども、文明の頃は尚その地に注目を惹くに足るべき部落なかりしものゝ如し。何となれば廻國雜記を見るに、道興准后がこの國を旅行したる際、野々市にても、津幡にても和歌を詠じたるに拘らず、金澤に就きては一も之を遺さゞりしを以てなり。而してその確實に金澤の名稱を發見し得るは、實に天文日記十五年十月廿九日の條に加州金澤坊舍の語あるに始り、永祿十年の麹座寄進状に金澤後町山崎屋新四郎とあるもの之に次ぎ、天正四年八月廿一日附一向一揆頭目の連署状には、『金澤御堂各被頂戴』といひ、十一年五月秀吉の消息に『金澤と申城に立馬』といひ、十三年又秀吉の消息に『けふはかなざわにこしさら』などの語を見るに至れり。されば本願寺實如のこの地に坊舍を建てたる後、漸くその名の著るゝに至りしが如く考へらる。或は曰く、天文日記六年四月廿四日の條に、『加州金澤庄より勸物千疋來、請取唯今以周防到候(出カ)。』とあるを金澤の名の初見とすと。こは天文日記原本に金津庄とあるを、他の寫本に誤つて金澤庄の草體に書きたるに依る。從ふべからず。