石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

金洗澤と藤五郎とに關する傳説の文に作られたるは、藤五物語を以て最初とすべしといへども、口碑としては尚それより以前に行はれたるべく、而してその普く喧傳せらるゝに及びて、世人は漸く藤五郎を以て實在の人物なりと信じ、史蹟としての金洗澤も亦生じ、天保十五年主前町齊泰の命によりて堂々たる金城靈澤碑を樹つるに至りたりき。今兼六園に存するもの即ち是なり。石川郡大乘寺門前に在りし古墳が、瓢塚の一名たる双子塚を以て呼ばれたりしを、藤五・和子二人を葬れる地なるが故に二五(フタゴ)塚といひしなりとするも亦附會なり。
金城靈澤碑銘並叙
                          臣  津 田 鳳 卿 奉命選
                          臣  渡 邊   粟 敬 銘
 北陸之鎭曰白山。雪封其嶺而四時不盡。其峻逼霄。稱爲本邦三嶽之一。自古屬管内。其麓跨五州。山脈蜿蜒向北而來。至山崎莊而止。環匝三面。蒼海膺其前。中有龍蟠虎踞之都。元精欝浡。鍾秀標瑞。具百二之形勢。實爲蜻洲之雄鎭。先公比之金陵建業城。乃其名所由也。城南數百歩。有瑟寒泉。清而漪。昔有逸人。稱曰藤五。採鏷于山。淘汰斯水焉。故稱金澤。藤五爲人寡欲。好施不嗇。葢藤氏第五郎。避洛之紛華。來棲遲於此。衣褐懷玉。遁名晦迹。不人知。故前史無徴者。天正中我前田利家)祖。自南越封登州。三遷移鎭尾山。布維新之令。革舊染之俗。招賢任能。自西自東。土感而應之。民悦而歸之。自成都邑。逮祿元年。恢拓都城。民人益輻湊。皆樂其土。於是近取此水。以名都城。於是乎。金城之名。昉聞于天下。迨前朝(前田齊廣)時。因營菟裘。池在其苑囿中。咫尺新殿。爰感建都之古蹤。仰祖公之創業。託物存思。乃錫嘉號。曰金城靈澤。竊比隆於有周之治。今公(前田齊泰)承統。理化休明。能纉先旨。命臣三亥。大書其榜。又命臣鳳卿。叙述其事。臣栗繫之銘詞。乃勒石。建于之池上。加以公親筆題額。於是勝蹟不千古矣。抑此水也。其肇知於一个逸民。遂被明主之顧。發名於文祿。錫號於文政。樹碑於天保者。以其密邇雄都。而遭右文之時也。雖然涓涓一檻之水。而被皇皇親奎之榮。寵異至此。固不期而遇。不求而致者。豈非數而存焉者乎。且數百年之前。誰知今日之事。至數百年之後。永依托雄都。以與國並傳。又徴以斯文。則誰不人以池傳迹。池亦因城託名。壹是皆頼明主之一擧。而三善皆顯哉。果然則勝蹟。眞是不朽無疑矣。臣材駑且老。固不以應盛旨。敢陳愚衷。以寓景仰之意。臣栗撃以銘。曰。
  府城之南  權泉洋溢  茲匯爲レ澤  克育萬物  滋潤膏沃  涵養無
  盈科而進  成章以達  豈同溝澮  雨集皆盈  厥實深厚  粤得美名
  君子所法  君道以享  遺澤流渥  黎庶遂生  休哉君徳  日昭月明
   天保十五年歳次甲辰正陽月
兼六園内金城靈澤碑〕

金城靈澤 在金澤兼六園