石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

前田氏入國の後に及びては、提封の大なる、士人の多き、忽ち城下發展の勢を増したりしこと論を待たず。その中、利家の尾張荒子に起りし時より、越前府中に、能登七尾に、而して最後に金澤に隨ひ來りし諸士の住居せし所を尾張町と名づけ、尾張町の南北に沿ひて新町と今町とを生じたりといへば、是等は最も早く成りしものなるべし。當時金澤城内には、他の城郭に於いて見るが如く、大身巨祿の者をして二丸・三丸に住せしめ、工商の住する堤町・南町も亦之に接近したりしが、文祿元年石壘を築きて城地を擴張せしとき、悉く家臣を城外に移し、堤町と南町とは現今の地に轉ぜしめき。この際戸室山の石材を搬出して城壘築造の用に充てしが、後その通路を石引町といへり。慶長四年利長金澤に入りし時、舊と越中に在りし多數の臣僚從ひ移りしかば、城下殷昌を加へ、市制漸く整ひ、尾山八町租税を本役銀とするに對し、袋町・博勞町・今町・河原町・大工町・竪町・石浦町を半役銀とし、その外に地子町及び裏屋小路ありき。此の年内總構の塹濠を疏鑿し、十五年又外總構を作れりといへども、市坊の變ずることなかりしが、利長高岡に隱棲せし後、十七年臣僚の一部を金澤に返し、十九年利長薨じて遺臣悉く歸住するに及び、市區擴大し、高岡町の如きはこの時に成れりといはる。その後元和二年に至り、人持組に屬して三千石以上を領する士に下屋敷を與へ、又市區の整理を施すべき必要ありしかば、上口の寺院を泉野に集めて寺町と稱し、下口のものを卯辰に合し、利家墓所野田山に至る往來に並松を植ゑ、宮腰に達する道路を一直線たらしむる等の事を爲し、瀧與右衞門をして土工を監せしめき。こゝにいへる宮腰とは、即ち今の金石町にして、金澤より一里半を距つる海口なり。この道路を一直線たらしめしは、三壺記にいふが如く、單に城上極樂橋よりの觀望を美ならしむるを理由とせず、物貨の輸出入を便利ならしめん爲なりしこと言ふまでもなし。

 元和二年の頃、瀧與右衞門といふ者、石川・河北兩郡裁許被仰付、夫に付諸代官等も其下知に隨ふ。犀川大橋より坂の上畠にて所々に小松抔有けるを、町中にはさまる諸寺等を泉野へ上させらる。河原町裏面の方の寺町其外方々より、野町屋敷渡(泉野カ)りて引越す。下口惣構の内の寺町等は、淺野川山の際に移さる。川がけの上茶園に被仰付、寺町は片原町にて相濟。夫より野田山への道筋は、利家公の御墓所へ參詣衆の往還なれば見苦敷とて、寺町の端より並木小松をうゑさせられ、道に指添馬場を通じ、野田の麓三本松の南に、遠乘の爲とて芝にて土手を築き、馬場を爰にも拵へたり。犀川のがけの上野に柹畠・栗林・葡萄の棚、山の傍に覆盆子畠を附させられ、野田道右手の野原に油木數十本植させられ、三屋の在所に土藏を建、木の實を取入、御城中の燈油に用ひ、宮腰の海道犀川の方に有之て、御城より見おろせば九折にて見吉敷とて、極樂橋の上より目の下に見ゆる樣に、廣岡の町端に篝火をたき、宮腰の町口に又篝火をたき、其間に四五ヶ所篝をたき、夜中に火の目あてにてぼうじ(牓示)をなし、繩張を極め道をすぐに作らせたり。此篝の火にて道を直に直すことは、今枝内記指圖を以、瀧與右衞門御郡の人足共に下知して出來す。此年人持衆下屋敷等相渡り、面々に作事を營みて、地子町・寺町立替り、賑成申計なし。
〔三 壺 記〕