石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

かくて利家の遺命を奉ずるその子孫は、進出を以て交戰の第一義となしたりといへども、亦萬已むを得ざる場合に在りては、固より領内に在りて防禦するの覺悟なかるべからず。是を以て利長は、慶長十年富山城に隱棲し、十四年そのに罹りし後また高岡に築きて之に徙り、以て金澤城の前衞に任ぜり。利常の時、寛永十五年幕府命じて一藩一城の制に從はしむ。是に於いて越中高岡・魚津・今石動、能登七尾加賀大聖寺小松等の諸城皆廢せり。而も高岡は前侯の心力を傾倒して經營せし所なるが故に、石壘塹濠尚舊状を遺し、富山も亦後の遺址を存したりしなり。十六年利常退老して再び小松城を興し、その子利次を富山に封じ、利治大聖寺に居らしむ。利次乃ち舊城を修めて之に治し、利治は居舘を錦城山下に營めり。小松城利常薨後といへども尚之を廢せず。故を以て金澤城の前衞は、南に大聖寺小松あり、北に富山あり、而して高岡も亦緩急の際之に據るを得べかりしなり。若し夫金澤城直接の防備に至りては、城地が小立野の丘陵と相接續する所に深く百間堀を鑿ちて之を絶ち、白鳥堀・蝶螈堀をその左右に連ねて嚴重なる要害と爲し、大手方面にも亦壘塹と塹濠とを設けたり。獨甚右衞門坂方面に在りては、塹濠を掘鑿することなかりしといへども、尚懸崖峻坂を有するを以てその不利を償ふことを得べかりき。その他城を距ること數町にして内總構外總構あり。水深水幅甚だ大ならざるも、亦幾分防禦の便宜に供するを得べく、街衢の要地には大身巨室の邸第を適當に布置したるを見る。