石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

金澤火災に就きて叙したる序に、震災に關しても亦記せざるべからず。案ずるに藩治の初、天正十三年十一月廿七日越中大地震ありて、餘震二十九日の夜に及び、礪波郡木船城崩壞して全く舊態を失ひ、城主前田秀繼以下多く壓死し、寛永十七年十月十日には加賀大聖寺大に震ひ、家屋の損壞多く、人畜死傷し、又享保十四年にも能登鳳至郡に大震ありて、七月七日に於ける震動三十四回に及び、餘震同月十二日に達し、輪島のみに於いてすら家屋の倒壞三百餘を算したることありといへども、是等は皆金澤に何等の損害を及ぼさゞりしが如し。その後天明六年十一月七日戌の上刻にも地震ありしが、その強烈なること六十年來未だ曾て有らず、産婦の驚き死するものすらありしと記さる。次いで寛政十一年五月二十六日の申刻過大震あり。這次に在りては、金澤城の内外に於いて崩壞したる石壘・塀墻頗る夥しく、士邸商屋多少の被害なきもの殆ど稀なり。河北郡黒津船社の神主齋藤近江の住宅土中に陷沒し、その家族悉く死したりといふもこの時のことにして、金澤卯辰玄門寺の巨佛も亦倒壞したる爲、翌々年之を再造したりしこと同等の記録に見えたり。又文化十二年正月二十二日の大震には小松城の毀損最も甚だしかりしといへども、金澤には被害を見ることなかりき。次に文政二年六月十二日の地震には、城下家屋の倒壞せしものあり。安政五年二月二十六日曉八時過又強震ありて餘震十餘日に及び、郡市の害を被ること多かりしと共に、金澤城の石壁も亦崩壞せる所あり。之を要するに金澤に在りては、寛政の震害を以てその尤なるものとし、安政のもの之に次ぐが如し。

 寛政十一年五月二十六日
 一、御城大手石垣右の才崩る。同續石垣餘程崩る。同塀同斷。
 一、石川御門前通、左右石垣大半崩る。
 一、蓮池御堀、御城の方石垣二所崩る。
 一、同御庭園塀石垣共、御門より東の方不殘崩る。
 一、松坂高石垣餘程崩る。
 一、時鐘所石垣崩れ危相成候に付、三の丸早鐘を時鐘に被用、足輕詰所假に出來。右出來迄は、三の丸御番所次之間に時計を置、足輕相詰候由。
 一、三階御櫓臺崩る。
 一、石川・河北兩御門臺石垣並橋爪御櫓臺石垣等、切合石喰違出來。
 一、御城惣体石垣、孕石等出來之所所々有之由。
 一、御屋形に損所無之由。
 (中略)
 一、廿六日大地震之後、夜中數度有之。其内廿七日之曉七時頃餘程強し。夫より六月十日頃迄は、晝夜四五度或は二三度宛毎日地震す。去ども餘り強きはなし。其後々も折々有之。
 一、七月三日朝五半時頃及九半時頃地震、兩度共少し強し。夜中も兩度有之由。寢入樣子不知。同四日夜又地震、金澤は爲指事もなし。湯涌谷は餘程強しと云々。
〔森田修陳自記〕
       ○

 五月廿六日(寛政十一年)中之刻、加州金澤強地震有之。續而弱地震三度有之。御城内石垣等初、所々損じ、御殿は御別條無之。御城下武士町等町家、損所多有之。
 一、黒津(河北郡前大崎邊潟中に、百七十間に五十間許の島出來。此外にも右樣の島、右續の潟に出來。是は砂山を水中へ突出し候ゆへ也。都而右邊の濱洲入して歩行危く、砂中に股迄落入所多し。
 一、加州にては諸家壁の不切所一軒も無之。尤境野の不倒所も無之。
 一、右地震、上は小松邊迄大抵同然。御城は少々の損じの由也。
 一、連日犀川縁淵之間崩れ落。此響に而彼筋川縁堀縁は、地面に破れ多く歩行心配と云々。
 一、地面割れ候處は、其後の雨にて口廣く成、四寸五寸程宛も明き有之。御城内にては、坂下御門内と石川御門前迄の地面に數所割れ出來、其外も所々同樣。
〔政鄰記〕
       ○

 寛政十一未年五月二十四日日輪朱の如く赤く、同二十五日朝の内も同事。同二十六日申刻時分大地震に付、御城中御圍御石垣等大損、並御家中土塀等大破、河北郡宮坂村家立皆潰、曁右潰家より出火。神主家内六七人相果。且亦此村前の潟に太き成島出來。
〔郡方舊記〕
       ○

 安政五年二月廿六日
 朝大に寒、今日半曇。今曉八時過是迄不覺強地震、夫より小きは度々有之、夕景より少々雨、温。
 二月廿七日
 一、昨曉之地震に、御城格別大破損無之候得共、少し宛御破損數所有之由。
 二月廿八日
 一、此間の地震、上は能美郡邊・越前地、下は越中筋餘程強く、地も餘程割れ、潰家等多く有之由に有之。
 二月晦日
 一、此間之地震越中筋は餘程強く、地中五六尺も裂々に相成、高低出來候も有之旨注進。湯涌(石川郡)之湯少しも不出候由。
 三月二日
 一、此間之地震金澤左程に無之。上は大聖寺より越前地、下は越中・飛騨・今石動邊強く、富山邊土藏計も三百許損じ、且上に而者大聖寺町方等百軒餘、半潰土藏等五十許。越前地者金津・丸岡強く、家數二百軒許潰、土藏七十許損。加州に而者、向粟崎六十軒許潰家有之。此邊迄強し。尤右強き處は御城なども御破損多く、下信州邊も金澤邊位之地震之由。京都之儀は不相知候得共、大坂は廿五日晝九時より廿六日九時迄火事、家數壹萬七千許燒失。火事中に地震餘程強く、土藏許も四百許潰等大損之由。
〔御家老方等手留〕
       ○
加州金澤城中地震に而損所之覺(安政五年)
 一、本丸之内石垣孕所        四ヶ所
 一、本丸二之丸境石垣崩所      壹ヶ所
 一、同所石垣口開所         壹ヶ所
 一、二之丸之内石垣孕所       壹ヶ所
 一、同所石垣口開所         壹ヶ所
 一、三之丸之内石垣孕所       三ヶ所
 一、同所續石垣孕所今度地震に孕増  二ヶ所
 一、同所石垣開所          一ヶ所
 一、損土藏             六
 右之外總圍土塀大半崩損、且小松城内之儀も圍等所々相損申候。
 一、百拾四軒            城下潰家並半潰損家共
  内
   八  軒            侍並家來召仕之者
   拾  軒            寺
   九拾六軒            町家
 一、拾 五             同損土藏
  内
   五               潰土藏
 (中略)
 右當二月廿六月曉、國元地震に而破損、其外城下侍屋敷等圍土塀崩損、且所々地割出來、田畑等吹出し、夥敷損亡に相成申候。
〔御家老方等手留〕