石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

當時勢頗る隆盛にして、殿閣隨つて構造の廣大なるものあるを要したりしかば、本丸の地域狹小に失するのみならず、冬季西南の風威常に猛烈にして居住に適せざりしを以て、後北方の稍低地に移すことゝせしもの、即ち前掲の指令に、『二・三之丸ひとつに被成、御作事可之。』といふものにして、之より後藩侯の居舘は二丸御殿と呼ぶを例とせり。之と同時に、かくの如く頻々たる火災は、人をして城内水利の不便なるを痛感せしめたりしかば、翌九年郊外上辰巳村より犀川の水を引き、これを二丸なる藩侯居室の庭前に導けり。辰巳用水と稱するもの即ち是にして、水路の長さ二里餘に亙り、小松の人にして測量算數の事に精しかりし板屋兵四郎をして工事を督せしめたりき。或は曰く、辰巳用水は戰時籠城の際に於ける重要の施設たりしものにして、は兵四郎がその機密を他に漏洩せんことを恐れ、寛永十三年十月九日窃かに之を戮し、而してその亡靈を河北郡袋村なる八幡社に合祀せり。後に袋の神と稱せらるゝもの即ち是なりと。兵四郎は一に下村兵四郎といふ。寛永十七年尚越中新川郡高原野新田の用水工事に從事せり。その横死説の根據なきを知るべし。况や辰巳用水の主なる目的が、火災の消防に在りしこと三壺記にいふが如くなるべく、傍ら戰時の用に供し得ざるにあらずといへども、その水路は假令一人の兵四郎なしとするも、到底之を秘密に附し得べき構造にはあらざりしなり。是等の説、恐らくは泰平の時に在りて、藩侯の居城を無條件に金城湯池なるが如く考へしものゝ臆測に出でたるなるべし。

 凡此引水道者。自上辰口河口。至同所水門二十九間。自水門下吉阪下。作隧者水六百三十四間半。隧終而現水僅二間。又通隧中三百三十二間。至下辰巳村邊。又現水五十八間。而又通隧中十一間半。又現水十三間。而通隧中十八間。又現水百五十四間。而通隧中十一間半。又現水十三間。而通隧中十八間。又現水百五十四間。而通隧中四十四間。又現水六十四間。而通隧中十三間。又現水九間。而通隧中三十間。又現水五十四間半。而通隧中四十五間。又現水百二間。而通隧中三十七間。又現水四十六間。而通隧中七十間。末村瀧坂之左有隧窓。這水窓下。己未年(寛政十一年カ)新所掘之隧中通水四十八間。而現水十三間。又通隧中二百十三間。而現水二所併五十八間也。此間己末年設新隧者。二十間與五十二間。而有隧窓。自隧窓而下。通隧道四十間。而現水六十間。又通隧四十五間。而現水五十二間半。又入隧中二十八間。而現水四百二十一間。自是湯谷中。通隧二百九十間。至土清水終焉。而現水四百三十間。至焰硝庫也。自焰硝庫上野板橋。又六百四十四間也。自上野板橋龜坂水門九百間。自龜坂水門石引町水門三百四十間四尺。自石引町水門學校(今ノ兼六園内)外升形五百四十三間四尺。學校境内水道七十間。學校升形中八間四尺。自是至蓮池也。凡自上辰巳河口。逮此所行程二里四十四間也。
〔越登賀三州志〕
       ○

 同年夏中(寛永九年)の事成に、御城火事の砌、町中に水の手大切にして不自由成事被思召付、何共致し犀川の上より水の上るたくみの可之やと御談合有之に、長九郎左衞門内に毛利半左衞門と云大工は、昔伏見の河せきに九郎左衞門裁許の時たくみの上手成事隱なく、此者早々登城被申付樣にと九郎左衞門方へ御使を立させ給へば、早二三年以前に病死仕由申上らる。小松町人板屋兵四郎といふ者算勘の上手にて、左樣のかねを見る事上手也と御耳に立被召寄。川上へ參り地かねすみを以考へ罷歸り、何の造作もなく小立野へ水をのぼせ可申由申上る。更ば急ぎ致させ可申由、奉行人被仰付。役人を以用水河掘の御普請とて、夏中よりほり懸り、役人一日に四度宛の賄をいださせて、四度食といふ事是より初る。事急成御普請の故也。毎日出來の樣子、江戸飛脚を以言上す。川の上に上辰巳と云在所有。夫より山の根を掘廻して、無程小立野へ水上る。
〔三 壺 記〕