石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第九節 金澤城及び城下

天正十一年盛政賤嶽の戰に敗るゝに及び、秀吉は尾山城を收めて前田利家に與へたりしを以て、利家七尾城より移りて之に入りしが、殿閣の建築未だ起らず、利家の居舘は即ち本丸の地に在りし金澤御坊の佛殿を假用したりしが故に、その棟木に結ばれたる梱包より阿彌陀如來の像を發見したることありて、利家夫人は之を持佛とせしが、後西本願寺の支院に與へて本尊となさしめたりと傳ふ。次いで高山南坊利家來仕するに及び、その設計に因り小坂(ヲサカ)口(後尾坂に作る)を以て城の大手とし、石川口を搦手と定め、文祿元年二月利家大坂に在りし時、金澤に留守せる利長に命じて、巨石を戸室山より採り、土壘を改めて石垣を築かしめき。然るにその工事中東方の石垣崩壞すること兩度に及び、資財と力役とを徒費すること多かりしかば、利家は篠原一孝を歸藩せしめ、その指揮によりて築造を遂行せしめんことを利長に勸説せり。科長之を聞きて悦ばず、越中守山城に入りて偃息したりしが、一孝は來りて工事を督し、石を積みて全高の八分に達するに及び、稍壁面を後退せしめ、以てその功を成せり。利長後に石垣の中間に一階段の状を爲せるを見て大に怒りしも、既に竣成せるを以て亦如何ともすること能はざりき。是より後城内二丸・三丸・西丸・北丸等、皆藩臣中巨祿の者の邸地に當てられ、甍棟相接して頗る壯觀を呈するに至れり。