石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

この年將軍家光は諸侯を會して、自今祖宗の慣例を改めて幕府の紀綱を振肅し、外樣に對するに譜代と同一の待遇を以てすべきことを宣言し、又幕府の法を用ふること如何に峻嚴なるかを示さんが爲、六月加藤忠廣の封を沒收し、九月松平忠長を處罰したりしに、諸侯皆戰々兢々、敢へて法に觸れてその社稷を失はざらんことを冀へり。是の時に當りて光高が家光の養女大姫を迎へて室とせしもの、豫め婚姻政策によりて安泰を計るの術策に出でしや否やを知らざるも、その實續に就きて言はゞ、闔の君臣をして將來大に兩家門の關係が圓滑となるべきを思ひて、喜悦の情を禁ずる能はざらしめたるなるべし。光高の新夫人大姫は、實は水戸侯松平頼房の女にして、光圀の姊なり。寛永八年十二月十日將軍家光之を子養し、その利常に命じて光高の婦とすべきを定めたるは翌九年十二月十三日にして、十年十二月五日を以て來歸せり。是より先、前田氏江戸の辰口邸に新殿を構へ、以て夫人の居に充てしが、その輪奐の壯麗なること實に人目を眩せしむるものあり。前田氏がいかに大姫の入輿を歡迎し、いかに幕府の滿足を求むるに努力せしかを見るべきなり。

 二月下旬(寛永十年)の事成に、將軍家光公御鷹野に御出とて、往還をとめ人しづまり有之所に、加賀の御屋敷は、數百人の大工木挽、役人の聲々、鑿槌の音をまじへ、天地もひゞく計に聞えければ、大目付衆と相見えて歴々たる人、裏門よりつゝと入、只今上樣御成にて門外御通被成所に、其構もなく鳴渡る事憚入所也。奉行人は何と申者ぞ、是へ被出候へと大に怒りければ、諸奉行人共爰かしこにかゞみ居て出あはず。然所に大山五郎左衞門は竹杖突、大工の横目を仕有けるが、柹手拭の鉢卷取て腰に挾み、謹で申けるは、此奉行人は私にて、大山五郎左衞門と申者にて御座候。御覽被成候へ、此作事出來次第姫君樣御入輿に付て、當年中に出來候樣にと春日島より御催促に御座候。夫故四千人に及ぶ大工・木挽の手を半時にても留候へば、いくらのおくれに候故如此に御座候。宜樣に被仰上候ば忝可存、若迷惑可仰付ば此五郎左衞門可畏由急度申ければ、御目付も、道理には候へ共餘り御前まで鳴渡り申に付てと申て出けるとかや。其時大山を樊噲成とぞ譽にける。
〔三 壺 記〕
       ○

 此御作事に、幾千萬の御入用夥敷、其中に御守殿の破風に孔雀・鳳凰、大臺所の破風に獅子に牡丹の彫物を惣金にみがきければ、金箔調奉行大塚帶刀走廻り、江戸中の金箔を買盡し、大阪へ調に遣し又買盡す。箔置奉行武藤長左衞門・矢野所左衞門にて、取あつかふ程の細工人數百人かり催し、位牌屋迄も呼寄たり。四方の長屋の軒の瓦を金にてみがき、腰板上下の桁に牡丹唐草、一間々々に梅鉢の御紋、いづれも惣金にて、瑪瑙の行桁婆利の壁と申共是には過じと云あへり。利常公、荒木六兵衞を召れ、長屋の箔下地遲く出來す、早々急がせ箔を置申樣にと、佃源太廓に申候へと御意有ければ、佃承り、先に仕る事跡になり、跡に仕る事先に成、御存もなき御好事、草臥果申由被仰上候へと申ければ、荒木聞て、左樣の御返事いかにして申上らるべき、不興成申分哉と申ければ、御大工中島甚左衞門承り、近日出來仕、箔置奉行へ可相渡由被仰土候へと申ければ、其通り六兵衞申上る。諸奉行數百人有けれども、此佃と甚左衞門と兩人して、諸の棟梁を致しけり。然に依て申度儘にて有けれども、何茂兩人の氣を計らひ勤けり。表・奧方惣棟數九字を六軒也。中昔より以來に、かゝる御屋形終に不見不聞と、諸人見物朝夕往來を留て市をなしにけり。
〔三 壺 記〕
       ○

 御屋形大方に出來し、掃除以下相濟ければ、春日の局に御家の樣見て參れと上意有に付、御上屋敷へ被參、御化粧の間・地震の間・長局・大臺所・湯殿・惣物置等、無殘所見物也。然るに御産の間・御廣式の住居春日局の案に相違して、奉行人を呼よせ、此御臺所の建樣、勝手左右に成て殊外惡敷間、臺所は建直し可申と大音にて怒られければ、奉行人仰顚して十方に暮、物をもいはず頭をさげて有ける所へ、本多安房守來り、いかに春日殿、今程天下泰平にして御靜謐なればこそ、かゝる御家も世にあらめ。日本國にかゝる御普請のあらばこそ。いつの功を以春日殿の好まれ候や。又半年も懸りて御臺所は出來せん、遠慮ましませと被申ければ、局聞て、是非共にと申にあらず、左樣ならばよからんと申事にて候ぞ、荒見事なる御屋形とて、頓て登城被致ける。其頃天下に、『はやり物、めつた揚弓・中將棊・春日局にひぜんかさ』とて、うへこす人はなかりしに、本多にめいりぬると皆人申けり。
〔三 壺 記〕
       ○

 寛永十年十二月五日に、將軍家光公の御姫君、光高公へ御嫁娶の御輿入とぞ聞えける。松平伊豆守・酒井岐守・阿部對馬守・酒井雅樂頭御供にて、御規式不輕事申に及ばず、千秋萬歳の御祝天下に聞え渡りて見えにけり。此時光高公は十八歳、姫君は七歳にて、いまだ御幼年の御事なれば、折々は入せられ、又或時は御登城にて、御城と加賀御屋敷の其間、上下男女馬やかごの往來は織筋より繁かりける。牛込に數千歩の御屋敷相渡り、長屋を建、姫君の御用人數百人居住す。加州より御廣式番其外役人數百人江戸へ被召寄、牛込の屋敷へ引越し、御前樣御用相勤む。御前樣御家老には塚原次左衞門を公儀より附置せられ、諸事御用等達上聞調上奉る。(中略)。御家の御威光天下に普く、光高公御登城の折節は、所々御番所下座致し奉敬事、將軍家の御成同事に見えさせ給ふ。目出度かりける次第也。
〔三 壺 記〕