石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

既にして幕府、我が老臣を召して訊す所あるべきを傳ふ。利常乃ち横山康玄をして登營せしむ。康玄の城中に至るや、閣老土井利勝之を延き先づ問ひて曰く、今天下泰平にして萬姓驩娯せり。然るに汝の主君新たに多く士人祿する者は何の故ぞや。康玄對へて曰く、是れ他郷浮浪の徒を招致したりしにはあらず。我が世襲臣隸の子弟にして未だ祿せざりし者を小姓とし、以て從行の事に習練せしめたるのみ。これ曩に用ふる所の小姓は、今や漸く老境に入らんとするが故に、新陳代謝を圖る所以なり。且つ閣老試みに之を思へ。若し寡君にして眞に異圖あらば、この輩皆直に用ひて隊伍に列せしむべし。豈既に食祿を與へたると、未だ與へざるとを論ぜんや。故に臣謂へらく、加賀侯にして他郷浮浪の徒を招致せりとならば、閣老宜しく當に之を鞫問すべし。世襲藩臣の子弟の如きは、毫も論ずるを要せざるにあらずやと。利勝又問ふ。然らば大阪從軍の士を再び賞したるは何の故ぞや。對へて曰く、往年大阪の役起るや、加賀侯年齒尚弱くして政務に慣れず、爲に悉く戰功者を擧げて賞賜すること能はざりき。その後天下昇平久しく、優遊年を閲して既に兵馬倥傯の事ありしを忘れたりしに、頃者勳舊の輩漸く之に慊らず、或は骸骨を乞ひて去らんとする者あるに至れり。加賀侯以爲く、此の如きは上は以て覇府に承事する所以にあらず、下は以て父祖の遺業を紹述するを得ずと。乃ち少しく祿を増して衆心を收攬し、且つ戰功の餘慶を子孫に傳へしめんとす。畢竟これ奉公の誠意に出づるものにして、敢へて他意あるにあらざるなりと。利勝曰く。然らば城郭修築せし所以は如何。對へて曰く、こは專ら訛傳に出づ。今夏居城に罹り、牆垣皆破壞するを以て、僅かに之を補綴せしのみ。豈此の如き小工事を修築と言ふべけんや。閣老若し之を疑はゞ、監吏一人を派して視察せしめよ、事直に明白なるを得んと。利勝曰く、近者多く甲冑弓矢を製せりと聞く、その眞僞如何。對へて曰く、眞なり。今夏のに曾て藏する所の甲兵皆燬く。是を以て新たに充實して非常の用に供せんとせしなり。固より諸侯屏の任を竭す所以にして、敢へて怪しむを要せざるべしと。利勝又問ひて曰く、船舶を他郷に購ひ、而して之をその購ひし所に繋留するものは何の故ぞや。若し船舶を要するが爲に購へりとせば、盍ぞ之を封内に致さざるや。對へて曰く、今天下太平なりといへども、偃武の後日を經ること未だ久しからずして、海内反側の徒なきを保する能はず。加賀侯深く之を憂へ、多く船舶を繋ぎ、以て緩急に備ふ。これ亦幕府の爲に謀る所にして、閣老の之を疑ふ所以のもの却りて怪訝に堪へざるなりと。暫くして利勝襟を正して曰く、方今前將軍病篤く、侯伯一人として之を憂へざるはあらず。然るに加賀侯獨之を憚らず、園池を修めて逸豫を事とするものは何ぞや。對へて曰く、これ亦加賀侯深慮の存する所なり。令前將軍病めるを以て、人心皆疑懼して訛言百出す。是の時に當りて諸侯の首班に居る加賀侯にして屏居欝屈するあらば、益士民をして沈滯不安ならしむべし。是を以て不急の土木を起して平常と異なるなきを示しゝなり。閣老幸に明鑒を垂れよと。康玄の論辯流るゝが如く、毫も凝滯する所あらざりしかば、利勝は首肯して事理最も明白なりとなし、直に席を立ちて入り、康玄も亦辭して邸に歸れり。この日利常、邸に在りて連りに康玄の還るを待ちしが、その顚末を聞くに及びて大に喜び、彼が勳勞の偉大なるを稱し、子孫に至るまで決して忘るべからずとなし、遂に康玄の手を執りて額に中てたりき。後利常光高と共に召に應じて登營し、幕府の疑始めて氷釋せり。康玄小字は三郎、長して大膳と稱す。八歳の時初めて利長に謁し、十五歳にしてその近習となり、祿千石を食む。長知の京師に群居せしとき之に從ひて去り、その歸るや亦同じく來仕し、元和の役に敵將四宮五右衞門を獲て功あり。翌年家老に列せしめられ、祿四千石を増しゝが、今や幕府の難詰を釋明するに及び、また四千石を加へて九千石を賜はり、以て正保二年九月享年五十六にして歿するに至れり。

西尾長昌宛前田利常書翰 金澤市西尾彜倫氏藏