石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

元和偃武の後十五年、加賀藩の形勢は上述の如く概ね平穩にして重大事件と認むべきものなかりしが、寛永八年に至り突如として困難なる一問題の起るに遭遇せり。この年七月前將軍秀忠疾みしを以て、利常江戸に至りて之を訪ひ、八月國に就きしが、同月臣僚の子弟にして身躰強健事に堪ふる者を擇びて小姓とし、十月には先の大阪役に勳功ありし者を調査して之を追賞し、多く船舶を他國より購ひ、且つ今夏に罹りたる金澤城を修して大に隗堞を鞏固にする等、白眼を以て之を見ればその行動稍疑ふべきものなしとせざりき。是に於いて、加賀侯前將軍の不豫に乘じて不軌を圖らんとすとの流言頻に江戸に行はれ、而して幕府も亦頗る之に關心すとの密報を得たり。利常乃ち老臣本多政重横山長知二人を招き、議して曰く、社稷存亡の期方に今日に在り。この時に當りて乃公自ら江戸に往きて辯疏するを可なりとすべきか、將た城に嬰りて幕府討伐を待つを利ありとすべきか。卿等事務に老いたり、請ふ各其の見る所を悉くせと。政重因りて嬰守の利あることを主張せしが、長知は成敗を度外視して江戸に至るを得策なりとせり。利常沈吟すること良久しくして、遂に意を決して曰く、余は長知の意に從ひ、老幹を伐りて嫩芽の繁榮を見んと欲すと。政重曰く、侯と長知と共に見る所此の如くならば、余又何をか言はんや。世子擁護の任に至りては余等二人戮力して之に當るべく、何等の杞憂あるを要せじと。利常又問ひて曰く、然らば我が江戸に往きたる後、登營分疏の大事を爲すもの果して何人をか適任なりとするか。長知曰く、藩臣多しといへども我が長子康玄より優れるものあらずと。是に於いて議遂に決し、利常は世子光高と共に十一月二十五日金澤を發し、康玄も亦從ひて十二月十日江戸に入り、その到著を閣老に告ぐ。而も將軍は容易に引見を許さゞりしを以て、利常はその異心なきを明らかにせん爲、大に土、木を興して本郷邸の園池を修めしに、巨石花卉を運搬するもの内外に絡繹し、頗る人目を聳動せしめたりき。

 寛永八年十一月中旬に、江戸にて御一門方より御内證の飛脚到來す。其意趣は、金澤には新參の者共數多被召抱、其上に先年大阪にて高名仕者共吟味有て加増遣、人持に被成者共多し。其上に城の堀・石垣等普請も有。今程公方樣も御不例也、無心元次第也と取沙汰も御座候間、早々御父子御參勤可然旨申來る。其時分迄は、毎年代り時分の御參勤と云事なし、何茂不時の參勤にて有ければ、光高公仰上られけるは、我等參勤可仕、春に成て其御元樣御參勤被遊候へと被仰所に、いや〱父子一度に參勤せば公儀も可宜、一人殘りては不然と被仰、御父子俄に御參勤と極り、十一月廿五日に御發駕、下通りは叶まじと上通に懸り、夜を日に繼御急ぎ被成けり。彼御供廻りの者共、足を踏損じ片腰引て行も有、打またぎの馬に乗て續くもあり。大橋市右衞門・神戸清四郎のみ相續き御供す。追付十二月十日に御着被成、御老中へ御案内有けれども御目見もなかりしかば、役人足輕に被仰付江戸中の植木共被召上、或は石などを車にて御取寄せ、御露地御普請夥敷、きやりの聲本郷湯島の町をひゞかす。
〔三 壺 記〕