石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

元和九年五月越前の國主松平忠直豐後に流されしが、その嬖臣五人は幕府命じて之を能登し、前田氏をして監視せしめき。七月十三日將軍秀忠の世子家光京師に朝し、利常も亦これに從ふ。尋いで秀忠は、その職を世子に讓らんととを奏請せしに、後水尾天皇之を允し給ひ、二十七日家光を征夷大將軍に任ぜらる。後八月六日家光の入朝して襲職の恩を謝するや、利常又之に隨從し、儀畢りて國に就けり。寛永三年七月家光また上洛せしに、利常も亦隨ひて本國寺に舘し、九月六日天皇二條城に幸し給ひしとき、利常は將軍及び諸侯と共に、駐輦五日に亙りて之に侍し奉れり。この年四月より八月に至るまで、封内雨ふらずして五穀登らず、細民爲に大に苦しむ。利常乃ち本郷邸修築せんが爲大に土木を興し、領内の工人を江戸に送りてその賃銀を利する所あらしめ、明年四月に至りて止む。この後、飢饉に際して土木を起し、以て細民の一部を救濟するは、の屢踏襲したる社會政策となる。六年三月又利常江戸に往き、四月廿三日筑前守を肥前守に、前名利光を利常に改め、同月廿六日將軍家光の臨邸を仰ぎしに、賜献の盛なること元和三年の例に勝れり。二十九日前將軍秀忠も亦臨み、冬に至りて利常は國に就けり。