石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

八年三月三日利常夫人、女夏姫を生む。既にして健康順を失ひ、夏に至りて疾益激しかりき。利常憂苦に堪へず、普く良醫を求めて湯藥を服せしめ、靈神靈佛に祈請し、自ら看護の勞を取るに至りしも、遂に七月三日を以て逝去せり、年二十四。利常哀悼の極昏倒すること二回に及ぶといふ。因りて八月八日城の東南小立野に葬り、天徳院を建てゝ菩提所とし、又遺骨を高野山に分かちて同じく天徳院を建つ。その小立野天徳院は、洞家の哲匠巨山泉滴を延きて開山となし、高野山天徳院は密宗の棟梁堯盛坊覺雄をして住持たらしめき。

 元和八年三月利光公(利常)の北の御方、御産の後御違例爾々無御座、諸人心肝を惱す。江戸金澤の其間は、晝夜のさかひもなく人馬の通ひやむ事なし。神社の祈願は八大龍王もおどろき、醫療の法は醫正善逝の瑠璃の壺の底を拂ふ。然りといへども、生者必滅の悲しみば上下をゆるさぬ習にて、御年二十三(四)歳にして七月三日に御遠行をぞ被成ける。十五歳にて初産有。九(十)歳の姫君を頭として、六(八)人の御子まします。此度の御産に姫君御出生、御産後御煩終におもらせ給ふゆゑ、扨々つらきは此御姫やといふ者もあり。御子樣は申に不及、御年は御盛なり、御果報は天下無双也、扨々と申て上下おしなべ山も里も歎きければ、さこそ日本國中斯こそあらめと思ふ計に見えたり。
 當座に御遺骸を納め奉り、八月八日は三十五日に當りければ、御葬送と相極めさせ給ふ。晝夜をかけて細工人共數百人懸り拵立、小立野にて執行せらる。今の御墓所に三間四方九品蓮臺の火屋を建、白土にて擧塗(ウハヌリ)し、白綾の水引を廻し、四本の柱を白綾にて包み、やらいを外構に結廻し、發心・修行・菩提・般若の四門を立、極彩色に色どりたる額を打。其間四町去て、伽善堂を四間四方に立て、天井には百花をゑがき極彩色、四方に曼陀羅花・曼樹花・摩詞曼陀羅花・摩詞曼珠婆華、天人迦陵頻伽管絃の繪、金石竹鞄土革木の有さま、あり〱敷彩色、四方の軒に金のけまんやうらく風にひゞかせ、金襴の幡にて柱をかくし、其堂の眞中には八方龕を臺に居て置奉る。御龕は惣金にして蓮華の彫物、金の風鈴・瓔珞を蕨手と軒端に掛ならべ、善の綱を四脇付て、四町の間幅六間に大唐竹にて埒を結ひ、六地藏を兩向ひに立たり。六尺間に百目蠟燭のみがき、三寸角を八角に削り、蠟溜のわたり七寸に削、朱を以て惣塗にぬり、垣の内には疊を敷、其上に白布をとぢて敷詰たり。諸宗の長老同宿幾千人、七條九條の袈裟色衣、爰を晴と出立て善の綱に取付奉り、笙・篳篥・太鼓・鉦鼓・鐲・鐃鉢を御經にまじへて鳴渡り、白綾の燈籠・幡六流、十二本に龍頭を動く計に作り付て、天蓋は惣て蜀江の錦なり。小幡等も一色にして、沈香の柱に火を付、前後四所に持せたり。金にみがきたる花籠に金の箔を切入、三間棹にて所々に四所立ければ、風に散ぬる切箔は犀川・淺野川まで散行、異香薫じて花降とはかゝる事をや申らん。御名代として、御位牌・香爐・花立・松明等を冠の裝束にて御一門衆持せらる。御若君樣達は御揚輿にめし、伽善堂まで御座なされ善の本綱に御手を掛られ戴き給へば、御供の人々も幾千萬、參拜衆も一同に聲をあげて泣ければ、流るゝ泪に袖を當て、見奉る事もあらばこそ、夢現ともわきまへず。夫より御輿にめされ、火屋まで御座被成、式次第相濟で御燒香こそ被成けれ。何茂御名代相副、御供御介添の人々も、五日も十日も目を泣きはらしてぞ居られける。寳圓寺伴翁(繁應)和尚の次師に、雲堯和尚導師にて、御戒名は天徳院殿乾運淳貞大禪定尼と號し奉る。夫より御寺御造營あり。則天徳院と號し、關東より泉滴和尚を招請有て、五百石の寺領を附られて、孝養修行申計なし。第三年忌には、八百五拾人の大衆にて江湖を被仰付。郡中より野菜等を持運ぶ。百日の御賄は中々夥しき次第也。
〔三 壺 記〕