石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

元和二年家康駿府に在りて病みしを以て、三月利常往きて之を訪ひしが、四月十七日に至りて遂に薨じ、尋いで將軍秀忠は、家康の遺物として貞宗の刀一口・玉澗の畫一幅を利常に贈れり。この年十二月十六日、秀忠利常の庶弟利孝を上野國七日市一萬十四石に封ぜり。是を七日市の始祖とす。初め慶長五年以降利長の母芳春院、質として江戸に在りしが、九年利孝は利長の命を奉じて之に隨從し、十九年六月芳春院金澤に歸りたる後尚留りて幕府に仕へ、こゝに至りて遂に諸侯の列に加へられたるなり。この事に關する翰譜の記載は全く誤謬にして、その書に利孝を以て叔父前田秀繼の世嗣なりとすれども、秀繼は天正十三年に死し、利孝は文祿三年に生まれたるものなるを以て、その間何等の關係あらず。利孝の芳春院に愛せられたるは事實とするも、其の生母は山本氏にして芳春院にはあらず。又芳春院が徳川氏より一萬石を賜ひたることなく、土方雄久の受けたる地は、初めは越中新川郡後には能登にして、初めは上野七日市後には加賀にあらず。隨つて利孝が芳春院の領を傳襲せしにもあらざるなり。翰譜が世に名を知られたる書なるを以て、今故らに之を正す。翰譜に基づきたる徳川實紀の記事が、同轍の誤謬に陷れること亦言ふを須ひざるなり。

 世に傳ふるは、利家の舍弟を前田右近秀繼といふ。此大和守利孝其世嗣となりしなり。其後利長の母芳春院と申せしが徳川殿へ參られしに、大和守利孝極て母の愛せし子なれば、連れて關東に下らる。關原の軍經て後、利長加賀・能登加へ賜ひ、かの母の方へも一萬石の地賜ひき。又土方河内守雄久にも、上野七日市の地下し賜ふ。此土方は利長ゆかりの人にて、此度利長と共に北陸を鎭めし賞なり。此時に老母關東にあれば其便よからんために、利長望みて土方が領と加賀の地を替へて、七日市をば芳春院の領とす。大和守又芳春院より傳領せしともいふなり。
〔藩 翰 譜〕