石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第八節 社稷の危殆

元和偃武の後に在りては、海内の人心全く徳川氏に歸し、素平の象漸く四海に滿てり。此の時に當りて前田利常は、頗る心を民政に致し、兵制を改めて士氣の振興を圖り、城下の市區を整理し、道路橋梁修築し、神社佛閣を壯麗にし、名工を聘して工藝の進歩を促し、農産と水産とを奬勵し、以て三州昇平の基礎を確立することに努力せり。されば元和二年六月二十日には、加賀・能登二州の田畑を悉く三百歩一反の法に改め、又隱田を有するものを處罰するの令を發し、七月には能登に於ける七木保護の制を設け、松・杉・檜等の良材を伐採せんとするときは、藩吏許可を得るにあらざれば濫に之を爲す能はざらしめしが、後にはこの法を加賀越中にも施行せり。次いで九月十一日軍役の法を定め、藩士祿の高下に比例して武器・馬匹・屬隸の一定數を常備せしむることゝし、十二月には新たに荒蕪を開墾してその地に移住するものゝ租税を免除するの法を定めたりき。この年又宮腰往來の直線道路を開きて、城市と海港との連絡を利便ならしめ、人持組に屬する士にして釆地三千石以上なるものに下屋敷を與へ、果樹の植栽培養を奬勵し、宿に關する賦課の法を定め、三年三月には越中諸浦の船税を起したる外、一面には寳達山より金鑛を採掘することを許し、その他領内に於いて金銅山を發見して採掘を出願するものあるときは、又之を許して鑛業を隆盛ならしむるの方針を取りしかば、百度殆ど整はざるなく、産業の隆昌欝然として見るべきに至れり。蓋し藩治以後文化的事業の稍重視せらるゝに至りたるもの、是の時を以て始とすべし。然れども波浪既に收りて、突風の時に水面を起伏せしむること亦全く無きにあらざりき。