石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第七節 大阪兩陣

是の日將軍秀忠は嚴に軍令を定め、その麾下左右の士をして斷じて先登すること勿らしめき。然るに石川重之は、殊功を樹てんと欲したるを以て之を喜ばず、曉に乘じて窃かに營を脱し、詐りて本多政重の陣を過ぎ、遂に岡山口に至りて機を待てり。既にして戰の始るや、重之先づ奮鬪して敵一人を倒しゝに、前田氏の兵群至してその首級を奪ひしかば、重之は更に進みて二人を斬りしに、偶利常の中軍を率ゐて來るに遇へり。重之乃ち路を遮りて呼びて曰く、こはこれ幕下の使者なりと。衆皆惧れて之を避けしかば、重之は直に利常の馬前に至り、その獲たる二首級を示して曰く、余は石川嘉右衞門なり。去冬本多正純の許に在りて初めて侯に謁せり、侯能く余を記するや否やと。利常之を見、往時の邂逅は尚之を忘るゝことなし、余は卿が武勇絶倫にして、這箇の戰功を樹てたるを祝す。然りといへども事今太だ急なり、卿も亦速かに去るべしといひて、その馬を進めたりき。重之後に軍律を犯したる罪に座して、その秩祿を浸收せられ、洛東に閑棲して餘生を送れり。丈山即ち是なり。是の日利常書を裁して、戰捷金澤に報ず。

 急度申遣候。今日[七日  ]大坂表へ御人數を被寄、將軍樣御先手我々に被仰付候に付て、岡山に敵數多有之候分を即時に追崩、本丸まで人數を遣、敵不殘討取、即時に火を懸悉燒崩申候。爾御所樣御感不斜候。於拙子者可御心安候。此由芳春院樣・玉泉院樣へ委可申上候。謹言。
                           筑 前 守
    五月七日(元和元年)申刻                     利   光(利常) 在判
      奧村伊豫守殿
      奧村備後守殿
      興津 内記殿
〔前田家文書〕