第二章 加賀藩治創始期
第七節 大阪兩陣
次いで十二月三日に至り、前田軍初めてその攻撃行動を開始す。この日家康、諸營を巡廻して前田軍に來り、利常に語りて曰く、この城急に薄るべからず、宜しく塹濠を穿ち掩堡を設けて長圍の計を爲し、大礮を城中に放ちて敵を苦しむべしと。利常乃ち之に從へり。然るに本丸の巽に方百聞許の出丸ありて、眞田幸村之に據りしが、幸村の兵その南なる伯母瀬の柵山又は笹山と稱する小丘に出でゝ、前田軍を銃撃するものあり。利常乃ち高所に登りて之を觀望せしが、諸將或はその危からんを憂へ、利常に勸めて山下に避けしめんとせしも、利常は泰然胡床に倚りて動かざりき。山崎長徳乃ち進みて曰く、今日風威甚だ凜烈、若し主將の病に冐さるゝあらば、我が軍の不利是より甚だしきはなし。請ふ共に低所に下らんと。利常之を容れ、徐歩してその所を去れり。是に於いて先鋒の將本多政重等、敵の爲す所を惡み、翌朝未明を以て伯母瀬山を奪取せんと期したりき。
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