第二章 加賀藩治創始期
第七節 大阪兩陣
利常は十七日麻生津を發し、終夜行軍の後、十八日朝近江の海津に著し、直に舟に乘じて琵琶湖を横ぎれり。この日使者名古屋に在りし家康の許に達し、利常の既に征途に上れることを告げ、十九日利常大津に至りて家康の來るを待つ。然るに家康は二十二日近江の永原に著せしを以て、利常はその地に赴きて之に謁せり。二十三日家康矢走より乘船して石場に上陸し、山科を經て京に入り、利常は大津に止りしが翌日こゝを發し、京を經て嵯峨に至り營し、二十九日嵯峨を發して天榊森に著す。時に前田氏の兵、附近の村落に放火して物資を掠奪するものありしかば、十一月二日代官板倉勝重は抗議を利常の重臣に致せり。案ずるに、利常の十月二十二日に認めたりと思はるゝ消息に、家康の明日膳所に來らんとすることを記したるものは、素より風説を述べるに止り、而して冬陣日記に、家康が二十二日膳所に著せりとするものも、この日永原に著したるを以て、利常その地に赴きて謁したるを過聞せるなり。當代記に、『十月二十三日加賀・能登・越中三國主松平筑前守[將軍 聟]着陣、下京邊陣取、人數二萬餘。』といへるも、亦誤謬なるべし。
尚々何事なくがいぢんいたし可レ申候。 一書申入候。了中(旅)うちつゞきてんき候て、十九日にあふみのうちあふつまでまいり申候。御所(家康)樣は、今日あふみのうちながはら(永原)と申所へ御ざ候よし申候。明日はぜゞがさき、廿四日には京入なされ候やうに申候。我等は明日ぜゞがさきにて御目見へ申、明日のばんか廿四日のばんか京入いたし可レ申と存候。京にて我等ぢんどりの事、にしの京・さが・きぬがさ山、此三ところにて候べく候。我等事そう〱まいり申とて、御所樣さん〲御きげんよく、(以下磨滅) ち く ぜ ん(利常) つ ぼ ね 〔篠島源兵衞清信傳書〕 |