石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第七節 大阪兩陣

この年十月朔、利常國に就かんと欲して江戸を發し、信濃路を經て十日越中の境に至りしに、申刻に將軍の急使到りて利常に大阪出陣の令を傳へたりき。利常乃ち一日一夜にして城に歸るといへば、必ず左右と共に駿を駛せしなるべく、その金澤に入りしは十一日なりしと思はる。越登賀三州志の記する所は之と異なり、今採らず。既にして利常は十四日を以て啓行せんことを令したりき。利常夫人諫めて曰く、これ吉辰にあらず、願はくは期を延べんことをと。奧村永福も亦大坂に至るの距離甚だ近しとせず、諸臣未だ行裝の整備せざるあるを理由として、數日を緩くせんことを請へり。利常曰く、既に一たび令を發せり。今にして之を變へなば、常に軍令を輕んずる者あらんを虞ると。時に奧村易英は、十四日に出陣せば將軍と大津附近に相會するを得べく、若し停滯して關東の譴を得ば、假令吉日良辰を擇ぶとも何の益かあらんと説きしに、議遂に決せり。利常乃ち十三日を以て軍令を出し、又部署を定めて奧村永福金澤城代とし、小松城前田長種大聖寺に近藤甲斐、七尾に三輪吉宗・大井直泰、魚津に青山長正、富山に津田義忠、今石動に篠原滿了を置き、本多政重長連龍前田知好・篠原一孝・山崎長徳・山崎長常・村井長光陣代・岡島一吉・富田重政・富田宗高等の諸將をして皆軍に從はしめき。當代記には、その兵凡べて二萬といへり。

 大坂御陣觸に、何茂早く用意仕候へ、三日の内に御立可遊と被仰觸候へば、奧村快心(永福)出申上候は、御日限今少御差延可然奉存候。大阪迄は餘程の間、其上用意も仕兼可申と申上候へば、御意(利常)には、其方申處尤に候へ共、申觸候事はや違候へば、此度の陣は我等下知はきかぬ筈にて候間、其儘に致し置候へと被仰候。御尤成儀と快心も申候。扨三日目に御立、道中成程靜に御越ゆゑ、御跡より何茂追付申候よし。松任に一兩日御逗留に而、追々かけ付申候よし。
〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕
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軍 法 定
 一、武者押並陣取之次第、一組宛先繰々々に不入込樣に可申付。備を離れ、私として陣取散々に在之族、可越度事。
 一、旗本騎馬之次第、定置之通不相違。主人お(下)り立候共、右之次第馬をひかせ可申事。
  附、船渡可同前、若猥に相交り候者可曲事事。
 一、武者押之時、脇道通候儀一切有間敷事。
 一、敵陣に近く、先手え爲見廻相越候儀、小姓馬廻後備之面々堅令停止候。惣而他之備に相交候儀可曲事事。
 一、先手之者並旗本面々、我々背下知備を崩、卒爾之働仕儀に付而は、縱雖高名曲事事。
 一、諸事奉行人申付儀不相背。自然不屆之輩、對奉行申事候ば、不入理非、其者可越度事。
 一、當座之使、如何樣之者差遣候共、不異儀其沙汰事。
 一、於陣中馬を取放におゐては、其主人過錢百疋可出候事。
 一、先手頭々並奉行人之儀は、馬上に而可下知候事。
 一、浪人衆、誰々によらず他家衆、當家の先手へ相加り候事一切停止之事。
 一、喧嘩口論仕出輩有之ば、任法度之旨双方可成敗。若手過者於見逃者、其場に有合者可越度事。
 一、御當家對御昵近衆、若致慮外者有之ば、於以來聞次第可曲事事。
 一、侍・小者によらず家中走者、何之家中に有之共、於當御陣中捕候儀一切不之。自然曲人見屆に付ては、於當主人に預け置、後日に斷可申事。
 一、於味方之地、下々迄狼籍不仕樣に可申付。宿賃以下如御定相渡事。
 右之條々、若違背輩可曲事。如件。
    慶長十九年十月十三日                 利   光(利常前名) 在判
〔國事雜抄〕