石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

寛永二十年五月廿七日外船筑前の大島に至る。領主松平忠之の家臣にして沿岸の警備に當りしもの、船中に臨檢して伴天連四人を獲たり。是に於いて幕府は、復普く天下に令して基督教徒を探らしめ、苟くも遺蘗なからしむるを期したりき。加賀藩に在りては、先に南坊・孫左衞門等を出したるを以て、その穿鑿最も嚴密なりしが、不亂といふものは幕府の通牒によりて江戸に送られ、又藩臣中川長勝の家に使役する掃除坊主道喜は、南坊の家に仕へたる牧村市左衞門の子なりしを以てこれを拘置し、園田味齋の子長太夫・八兵衞二人も亦教徒の遺族たるが故に訊問せられたり。此等の人々が如何に處分せられしかは詳かならず。但しその中不亂といふものは、三壺記に不閑と記したるもの即ち是なるが如し。同書にいふ。前田光高のとき、能美郡吉竹村の一向坊主不閑は、基督教信者たるの嫌疑を以て縳に就き、江戸に檻致して拷問せられしが、彼は頗る強硬にその教徒にあらざるを陳辯し、腰骨を摧かるゝも尚罪に服せざりしかば、遂に許されて國に歸ることを得たりと。

 今度筑州大島え、從異國吉利支丹著船之處に、松平右衞門佐番之者相改、搦捕之注進、奉書到來候之條寫遣之候。領内津々浦々常々無油斷相改候樣、所々奉行郡奉行並所々町人・百姓に至迄、急度可申付候。其上家中諸侍共連々可其意候由、是又可申渡候。能州之儀は海邊敷所候之條、別而可念事肝要候。謹言。
    六月三日(寛永二十年)                       筑   前(光高
      本多安房守政重)殿
     横山山城守殿
      奧村 河内守殿
      横山 大膳亮殿
      前田 出雲守殿
〔薫 墨 集〕
       ○
きりしたんの事伊豆原權之助申状
 一、瀬川茂左衞門、南坊に在之、已後不破彦三方奉公和はて、せがれも無之由申候。果候歟、せがれも無之候歟、其所遂吟味申越候。
 一、永澤太郎右衞門、是も南坊之候。是は最前江戸にても指候かと覺え候。土方掃部方罷在旨候。其妻子能州に居候付、當春被穿鑿之由候。彌吟味候而樣子聞度候。
 一、入江五郎兵衞、是も南坊に罷在、已後土方かたに有之果候之由。其なごり聞屆度候。土方かたへ状成共被遣、樣子具に承可申越候。廿二三成せがれ有之由候。右之者共早々に遂吟味申越候。謹言。
                           肥   前
    六月廿一日(寛永二十年)                      利   常 在判
      本多安房守殿
      横山 山城守殿
〔本多家記録〕
       ○

 一、井上筑後殿より不亂・幸三・乘物や少九郎儀付而、筑前守方へ状之うつし見申候。道中いかにも念を入、早々遣可申候。則不亂其へ遣申候。妻子之儀は此方にとめ置候。謹言。
                           肥   前
    七月朔日寛永二十年)                       利   常 在判
      本多 安房守殿
      横山 山城守殿
〔本多家記録〕
       ○

 一、鋸鍛冶茂左衞門、先年相果、妻子も他國へ罷越之由、書付之通聞屆候。
 一、木綿賣九右衞門儀、穿鑿候而も不知之旨、是も聞屆候。猶承屆候樣町奉行も可申付候。
 一、かごや少九郎儀、町人書付出し候付被越候。其通淡路守(前田利次)方へ申遣候。左樣相心得候。以上。
                           肥   前
    七月六日(寛永二十年)                       利   常 印
      本多 安房守殿
      横山 山城守殿
〔本多家記録〕
       ○

 園田味齋せがれ長太夫・八兵衞兩人事、親並兄弟宗門の張本人に候へば、不詳(承)ながらも難遁儀に候上、數人白状に載之候條、又所をも替、於所遂糺問然候之間、右兩人早々會所え可相渡候。以上。
    九月廿五日(寛永二十年)                      利   常 印
      前田 志摩守殿
      今村 彌平次殿
      古屋所左衞門殿
      山本久左衞門殿
〔金澤古蹟志〕
       ○

 分國中吉利支丹宗門之儀付而、面々日夜情被出候故、中納言利常)殿被御意、大形吟味相極候由尤に候。公儀御奉公と申、國之爲、かた〲以彌無由斷念候事かん要候。永々辛勞之程令察候。謹言。
    十一月廿九日(寛永二十年)                     筑   前(光高) 在判
      前田 志摩守殿
      古屋所左衞門殿
      今枝 彌平次殿
      山本久左衞門殿
〔薫 墨 集〕
       ○

 此跡高山南坊鈴木孫左衞門所に致奉公候者、家禮(ケライ)中急度穿撃仕候得共、男女に不限一人も無御座候。併牧村市左衞門と申者、此已前召置候。南坊に罷有之由候へども、寛永十六年に病死仕候。市左衞門せがれ一人御座候。年廿一に罷成候。掃除坊主に召仕、道喜と申候。しまり申付置候。以來召置候者の内にも、右兩人所に奉公仕候者承候者早速可申上候。爲後日御請状如件。
    二月十六日(正保元年)                      中川八郎右衞門(長勝)
      横山 山城守殿
〔切支丹一件等古文書〕
       ○

 不閑と云坊主、幼少の時元和の頃、禪龍寺の弟子にて學文能致し、春藏主と云。寛永の初め頃宮腰に寺を建、達磨寺と云。半狂人の短氣者にて、寺を持損じ、能美郡吉竹村にて道場坊主へ聟入し、一向坊主に成にけり。其時江戸より吉利支丹に指來るに依て、江戸へ被呼寄、御公儀へ出拷問せらる。其時腰の骨折て腰引に成ける。去共吉利支丹にてなき旨云のがれ、光高公の御前へ被召出、祖師西來の意を語りければ、辯口坊主のよし御意有て、加州へ御返し被成けり。
〔三 壺 記〕