石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

將軍家光の時、幕府が外教を嚴禁するに拘らず、諸國尚潛匿するもの多かりしを以て、踏繪の制を初め、商船の遠航を禁じ、洋書の輸入を防ぎ、その教徒を發見するや所罰の手段最も峻烈を極めしかば、寛永十四年彼等は遂に勃發して島原の亂を起したりき。この役、前田利常の子光高は自ら討伐の任に當らんことを請ひしも、家光は、未だ卿を煩はすの要なしとて許さゞりき。是を以て加賀藩は、山崎小右衞門に持筒足輕武部久左衞門・堀江加左衞門二人を添へて從軍せしめたるに止り、十五年二月島原城陷るの日、久左衞門奮戰して賊の首級を獲しかば、は功を賞して祿百石を與へ、班を進めて歩組に列せしめたり。

 肥前島原一揆起、近々討手被遣節、中納言利常)樣は本郷御屋敷に築山被成、八町堀其外所々より、大石・つくり木毎日修羅・牛車に而引申候。町々の木戸共につかえ申所を、大工大勢被遣こぼち、引申候跡より又結構に立被遣候得ば、あはれ肥前殿石・植木等通り候へかしと願申出に御座候。其内島原彌々つのり候へ共、肥前(利常)殿に普請之躰は、定而いかめしき事は有間敷と申ならし候。然所筑前(光高)樣被爲召保て、島原一揆共鎭り兼申候間、罷越しづめ可申旨上樣え望被申、退治被致候へと被仰。筑前樣御意には、陣用意も不致、俄にはいかゞ可之哉と被仰候得共、其段何共可成候と御意に付、御老中を以御望み被成候得者、誠に御滿足に被思召候、御自分馬を被出程の事には無之候間、今度は御頼み被成間敷と、上意に而御座候。其以前にはや金澤老中にも、自然筑前樣島原え被入事も可御座候。左右次第關原迄御人數を繰出し可成よし御内意有之由。
〔藤田安勝筆記微妙公夜話〕
       ○

 加州より天草へ山崎小右衞門を被遣しに、御持筒頭の竹部久左衞門(武)を召連しに、久左衞門は城中やぶるゝ日手を合、首一つ取けるに付、百石御知行下、御徒の内へ被召出
〔三 壺 記〕