石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

かくの如く戒飭を加へたるに拘らず、その後尚全く之を芟除すること能はざりしことは、かの契利斯督記に、『加賀國。此國には高山右近云々、内藤飛騨守云々、此者兩人は呂宋へ流罪仰付けられ、彼の地にて兩人共に相果て候。其家來宗門にて大猷院樣御代も多く出候由。』と記されたるが如く、この書は、家光の時を距ること遠からざる明暦四年に成れるものなるを以て、必ず過聞にあらざるべし。或は曰く、先に南坊・徳庵等の追放せられたる後改宗したるもの素より多かりしならんも、前田氏の政策は極端なる壓迫を基督教徒の上に加ふることなかりしを以て、信仰の鞏固なるものにありては依然として之を遵奉し、京都に潛匿せる宣教師も亦屢巡遊し來りて彼等を激勵するを懈らざりき。就中その最も有名なるはベント・フエルナンデスにして、彼は半年餘に亙りて加賀・能登の間に布教せり。フエルナンデスは西班牙の貴族に生まれ、初め印度に傳道し、慶長九年我が國に來りたる後、專心布教に從事すること二十七年に及びし人にして、その間北陸に入り、足跡を越後に至るまで印せしなり。内の状況此の如く頗る平穩なりしを以て、當時能登に於ける一資産家は新たに受洗し、その廣大なる邸地の内に聖堂を構へ、多數の信者は禮拜の爲こゝに集會せりといはる。邦人宣教師マルチン・チキミも亦毎年北陸を巡廻して教理を説き、喜悦と平和とを信者に與へたり。此等の事固より秘密に行はれたりしならんも、藩吏の之を知らざる理なく、假令知るも知らざるが如くしたりしなり。然るに其の後中央に於ける迫害は、漸く宣教師の數を減ぜしめたるを以て、北陸の傳道に從事する者なく、加賀・能登の信徒は自然消滅に歸するに至れり。前田氏の政策此の如く穩和なりしが故に、この地方に在りては殆ど旬教者を見ず。唯トーマス・イチガンの元和二年京都に於いて殉教せるありといへども、彼は單に加賀出身なりといふに止ると。