石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

或は曰く、徳庵の子好次、後密かに歸朝して金澤に住し、内藤休甫と號したりしが、寛永二十年幕府が再び基督教禁令を嚴にするや、江戸に行きて按檢を得、正保二年新たに廩米十口を食みて羽咋郡荻谷村に住し、延寳元年を以て歿すといへり。この事の記録に於いても、内藤氏の家傳に於いても並びに之を傳へ、休甫が嘗て知行千七百石を受けたるものなりとするを見る。思ふに休甫が切支丹類族たりしことは事實なるも、之を以て好次の後身なりとするは當らず。好次は慶長七年前田氏に仕へたる時千七百石の高祿を得たるものにして、當時已に相當の年齡なりしなるべく、活きて延寳に至ることは殆ど難し。且つ若し休甫にして好次ならんには、彼は國禁を破りて海外の流謫地を脱したる大罪人なり。幕府の之を赦すこと萬一にもあるべからず。思ふに徳庵若しくは好次の子にして外國に伴はれざりしものにはあらざるか。休甫の玄孫彌三郎玄理に至り、天明前田治脩百石を以て之に食ましめ、子孫世々之を襲げり。

                               内 藤 休 甫
 微妙院樣御代被召出、御知行千七百石被下置候處、父徳庵宗門之儀に付、慶長十九年異國え被遣候砌、老年に罷在候間、徳庵迄指遣候儀至而無心許存候に付、奉願一所に罷越申候。徳庵元和二年病死仕候其以後御國え罷歸居申候。然所重而宗門之儀に付、寛永二十年陽廣院樣爲御意江戸え被召寄、公儀え罷出有之候處、正保二年御赦免成、御國え被遣、十人扶持被遣、神戸清庵方に罷在候へども、勝手不如意に付奉願、能州羽咋郡荻谷村に在郷仕、延寳元年病死仕候。右子孫代々荻谷村え御扶持方下罷在、當時内藤彌三郎と申、右村に居住仕候。彌三郎儀組外に御座候。
〔袖裏雜記〕