石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

長知が三葉柏の家紋を改めて丸内卍を用ふるに至りたる理由に就きては、又その系譜に傳ふる所なり。曰く、長知は初め美濃に生まれ、七歳にして丹波に赴き、圓通寺の網天に就きて業を受けしが、その父長隆の越前に移りし時、網天亦同國大野の岫巖寺に轉じたりしを以て、長知は之に從ひて學び、十五歳に及ぶまでこゝに在りき。後長知の前田利長に仕へて金澤に來るや、慶長四年城下八坂の地に祖考の廟を營み、網天を招きて住せしむ。網天乃ち圓通寺の融山を延きて開山とし、長隆の法諡を採りて松山寺といひ、山號を圓融と稱す。初め長知の岫巖寺を辭せしとき、網天爲に一句の吹毛を示し、卍を描ける經帷子を附與せしが、後長知野戰に臨む毎に之を着け、武具什器亦皆卍を以て徽章とす。是より相繼ぎて家紋とせしなりと。この譚、妙は即ち妙なりといへども、恐らくはその眞を失ひたるものなるべし。思ふに長知は網天を師として、卍が佛家に於いて吉祥の相とする所なるを知りしこともあるべく、且つ小野氏より出でたる武藏の横山黨が悉く卍を家紋とするに併せ考へて、己も亦之に倣ひ、固有の三葉柏は僅かに裏紋として之を保存したるが、後世その子孫に至りては、眞にその出自を小野氏なりと信ずるの誤謬に陷りたるものにあらざるか。卍が梵語の所謂塞縳悉底迦(サバスチカ)にして、啻り印度に於いてのみならず、歐洲諸國に在りても亦遠く史前時代より幸福の象徴として用ひられ、基督教の久留子と何等交渉するものにあらず。而して塞縳悉底迦以外、我が國別に久留子より變化せる卍ありとするは、毫も之を妨げずといへども、加賀横山氏が之を採用せしは、切支丹信者を妻としたる康玄にあらずして、禪僧を師と憑みし長知なりしが故に、他の諸氏は今暫く言はず、少くともこの家の卍にありては、久留子より來りしものにあらざるを斷ずべし。近時往々にして新を衒ひ奇を弄するの説を爲すものあるを以て、今故らに之を辯する所以なり。因に言ふ、加賀藩士にして久留子紋を用ひたるものに中村氏あり。中村典膳筆記の松雲公夜話追加に、『私紋所、度々御尋(前田綱紀)被遊、宜敷紋に候由御意にて、名を御尋被遊候。はなくるすと前々より申傳へ候よし申上候處、根本何を直したるものに候哉と、金澤紺屋など御尋有之候へども相知不申候。』といへるもの即ち是にして、その同姓十一家皆花久留子を用ひたりき。但しこの中村氏が、舊と基督教徒なりしや否やに就きては、未だ文献に證憑を發見するを得ず。