石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

初め南坊等の縳に就かんとするや、彼は多年の恩遇を謝するが爲、利長に黄金三十枚の價値ある茶碗を贈り、利長の弟利常にも亦黄金六十枚を献ぜり。コリンは、この六十枚は本年收納の未進額にして、侯の再び農民より徴税することなきを請はんが爲なりしと記し、又パゼーは、利常がこの金子を領收せざりしことを記せり。次いで南坊は、その妻ジユスタ及び子十次郎と女子某等を伴ひて金澤を發せり。十次郎は容姿極めて端麗、好みて能樂を演じたりしを以て、時人『能を見ようなら高山南坊面(オモテ)かけずの十次郎を』と謠へりと稱せらるゝものにして、女子は即ち前田氏老臣横山長知の子康玄の妻とし、その父母と訣別するを欲せざりしを以て、遂に離婚を康玄に求めて行を共にしたりしなり。この時内藤徳庵も亦妻と四子とを伴ひ、好次も同じく妻子を携へたり。時に春寒頗る料峭、崎嶇たる山路を經、十日を費して比叡山の麓坂本に至り、こゝに京都より命の至るを待ちしに、暫くして彼等を長崎に送致すべく、家臣は之に隨行するを許さず、女子は京都に留らしむべしと傳へられき。而も尚その妻子は、彼等の夫たり父たるものに別るゝを欲せず、共に大坂に下りて海路長崎に向かへり。又加賀藩臣今枝直方の筆記に從へば、南坊京都に移送せられし時、は篠原一孝をして之を監せしめしが、南坊帶刀を奪はれて籠輿に乘ずるを見、一孝が素より南坊と相善からざりしに拘らず、籠輿を用ふる如きは決して士人を遇する所以にあらずとなし、普通の乘輿と兩刀とを與へんとせしに、南坊はその厚意を謝したる後、武器を帶するは主君に憚ありといひて受けざりしといへり。思ふに南坊は、利家遺誡中に『高山南坊世上をもせず、我等一人を守り律義者』と言はれたる人。必ずや基督教的好紳士なりしなるべし。