石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第六節 基督教の傳播

南坊前田氏に仕へし以前の閲歴と、その前田氏に仕ふるに至りたる事情は略上述の如し。是を以て、食封に多少の差こそあれ、往時は共に織・豐二氏の侯伯として同列なりしもの、今や一轉して主從の約を結ぶに至りたりといへども、南坊は固より不平の念を抱くことなく、天正十八年秀吉關東征伐の際には、利家幕下の部將として之に從ひ、秀吉の譴責を蒙るの恐ありしに拘らず、彼の家紋たる七星を用ひず、十字旗を飜して奮鬪し、平時に在りても亦その熱烈なる信仰を傳へんが爲、熾に基督の教義を鼓吹し、爾來この念佛國にデウスの福音を聞くに至れり。然れども南坊の此の如き態度は、決して一身の安全を期待すべき所以にあらず。慶長元年十二月秀吉の長崎に於いて西班牙の宣教師磔刑に處するや、南坊は己も亦迫害を受くること遠からずとなし、豫め伏見に赴きて利家に暇を告げ、多年の恩遇を謝するが爲に二個の茶碗を贈れり。因りて利家は、彼が漫に死を急ぐなからんことを諭し、秀吉の意單に西班牙宣教師を誅するに在りて、決して耶蘇會を禁ずるにあらざるべしとて之を慰撫したるに、南坊は常に死を致すの覺悟あるを語りて還れり。爾後南坊は依然客將として加賀に在り、慶長四年には利長の爲に金澤城修築し、七年には教徒内藤徳庵周旋して前田氏祿仕せしめ、十四年には又高岡城設計の重任に當れり。