石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第五節 三國統一

本多政重が先に前田氏を去らざるべからざりし事情は之を知ることを得ざるも、恐らくは彼が原戰役に於いて西軍に屬したりしを以て、徳川氏が前田氏の之に高祿を食ましむるを欲せざりしによるものゝ如し。而も徳川氏にして異議を挾まずとの諒解を得ば、佐渡守正信の子たり、上野介正純の弟たり、武に長じ文に暗からざる彼を起用することは、加賀藩幕府との關係を圓滑ならしむるに於いて、非常の適任者なりといふべし。是を以て慶長十六年四月十六日藤堂高虎は書を利長に與へて、利常の之を祿仕せんことを勸めしに、五月五日利長は之に答へて豫め幕府の承認を得るの要あることを述べたるに、六月十日高虎は利長及び利常に對して、幕府の異議なきを確めたることを報じ、之に因りて利長は六月十七日利常に對して速かに政重を招くべきを勸告せり。而して利常も素より同意なりしが故に、同月廿七日利長より書を高虎に送り、直に政重來藩すべき意を傳達せられんことを依頼せり。政重乃ち七月十八日を以て金澤に着し、復本多氏を冐して前祿三萬石を食み、且つ異日更に増封せらるべきを約して、五萬石の判物を得たり。この後利長利常をして、庶政一に政重の參畫に待ちて之を行はしめき。

  猶以能樣に心得候而可給候。以上。
 書
状披見申候。直江安房守昨日其地迄被著候由被申越候。存候者迎をも可出候處、不知候而無其儀候。能々心得候而可給候。にて被越候はゞ、未可草臥候間、緩々與此方(高岡)へは被越候可申候。先筑前守(利常)所へ目見候而尤候。謹言。
                           肥
    七月十九日(慶長十六年)                      利   長 在判
      奧村攝津守(榮頼)殿
〔本多家記録〕
       ○

 以分國之内五萬石之所令扶助了。全可知行之状如件。
    慶長十六年八月十二日                 利   光(利常前名) 在判
      本多安房守殿
〔本多家記録〕
       ○

 一、萬事我等ためのぎ、きも被入候てたまわるべく候。其下(許)さしづをうけ申度候。頼入申候事。
 一、ちぎやうわり、分國中しおきたう(仕置等)頼申度候へども、さだめて左樣のぎもむづかしく可存候間申かね候。其段は先々延(遠)慮候。さりながらしまりの儀はきかれて、よきやうまかせ入申候事。
 一、公義むきのぎ、又は御ふしん以下、其下さしづ候てたまわるべく候事。
 右之やうす、猶以奧村伊豫守・同河内守れう人口上に申含候。以上。
    二月十四日(慶長十七年カ)                      利   光(利常前名)
      本田(多)あわのかみ殿
〔本多家記録〕
       ○

 御ふみ給、まんぞく申候。誠にちくぜん(利常)義、其方せいを入られ候ゆへ、いづれも下々ともにしまり候て、まんぞくこれにすぎず候。いよ〱せいをいれ候て可給候。明日はて候ても、此ぶんに候へばまんぞく申候。其方さくじ(作事)、ざい木なき所にて候間、一入くらう候べく候。さし。
    九月十九日(慶長十七年)                      ひ(利長
      あわの守殿
           參
〔本多家記録〕