石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第五節 三國統一

本多政重は徳川氏の老臣佐渡守正信の第二子にして、天正八年を以て生まる。政重年十二の時、倉橋長右衞門の養ふ所となり、長五郎と稱し、二年の後出でゝ家康の臣となりしが、慶長二年秀忠の乳母子岡部莊八を斬り、伊勢に遁れて正木左兵衞といひ、幾くもなく京師に行きて大谷吉隆に仕へ、四年更に宇喜多秀家の臣となりて祿二萬石を食み、五年西軍に從ひて伏見及び關原に戰ひ、その敗るゝに及びて近江の堅田に隱棲せり。小早川秀秋等これを聞きて辟さんとせしが、政重は之に從はず、安藝に赴きて福島正則に仕へ、三萬石を食めり。次いで七年、正則を辭して利長に屬し、本多山城と稱す。その食祿尚舊の如し。然るに九年、政重は又去りて米澤に赴き、上杉景勝の臣直江兼續の養子となりて、姓名を直江勝吉と改め、通稱を大和又は安房といひ、後米澤を脱して京師に入れり。