石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第五節 三國統一

慶長八年二月十二日家康征夷大將軍に任ぜられ、徳川氏は豐臣氏に代りて全く覇業を成したりき。次いで十年三月、家康秀忠と共に西上して伏見に入れり。これその將軍職を讓らんとしたるに因る。是に於いて利長も亦嗣子利常を伴ひて發し、四月八日家康伏見に謁し、幾くもなく國に歸れり。是より先、利長隱棲の志ありしかば、堀田平右衞門等をして富山城修築することを計畫せしめしに、平右衞門三月二十九日を以て設計書を作り、之を利長に上る。六月十六日利長退老の期將に近きに在るを以て、重臣に命じて誓書を上らしめ、次いで二十八日將軍の許諾を得て封を利常に讓り、越中新川郡二十二萬石を隱居領として富山に移り住めり。この時利長の齡正に四十四、前途尚春秋に富むといへども、嗣子利常既に將軍の贅壻たるを以て、之をして速かに家を襲がしむるは、即ち社稷を安んずる所以なりと考へたるが故なるべし。利長の從臣横山長知・篠原一孝・神尾之直・今枝重直・淺井左馬以下、皆今明年を以て邸を富山に構へ、而して城中殿閣の築造は、越えて十二年に至りしものゝ如し。
敬白天罰靈社上卷起請文前書之事。
 一、萬端被仰出法度之旨、於手前聊疎略不致。若下々不相屆儀候はゞ可申付事。
 一、諸事御法度を相背、猥之義於承付著、誰々内衆たりと云とも、互に無用捨其主人可申理、少も見隱聞隱申事不之事。
 一、喧嘩口論並公事篇之義、有樣之旨を乍存、爲贔負偏頗非分之儀申立事有之間敷事。
 右之條々、若構曲折違犯者、忝も批靈社上卷起請文天罰忽可罷蒙者也。
    慶長十年六月十六日                  家 老 衆 連判
〔横山長知私記〕