石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第四節 大聖寺淺井畷二役

利長家康の催促に接したるを以て、今は到底遲疑すべからずとなし、九月十一日を以て蹶然金澤を發したりしに、能登の諸將は皆之に屬し、殊に長連龍・好運の父子はその先鋒たりしも、利政は獨來り會せざりき。是より先丹羽長重は、淺井畷の戰に一撃を前田氏の軍に加へて、父祖の武勇を辱しめざるの誇を感じたりしといへども、又靜かに天下の大勢を觀ずるときは、大聖寺の山口氏既に倒れて輔車相依ること能はざるに至りしのみならず、南越の青木秀以等亦深く憑むに足らず。之に加ふるに徳川氏の勢威益旺盛なるものあるを以て、寧ろ前田氏と親睦するの有利なるを悟りしが如く、八月二十二日その臣種橋宗兵衞を遣はし、家康の臣西尾隱岐守・同藤兵衞に書を贈りて、利長と和平の意あることを述べ、爲に周旋せんことを求めたりき。然るに未だ何等の回答を得る能はざりし間に、利長は再征の途に上り、岡島一吉・横山長知をして書を長重の老臣に致さしめ、互に和親せんことを慫慂したりしを以て、長重は時宜に從ひて處置すべきを老臣に一任せり。而して種橋宗兵衞の齎したる書翰は、漸く九月十三日を以て岐阜に於いて手交することを得たりしが、家康はその請を容れ、且つ長重の利長と共に南進して、越前に於ける西軍諸將を討たをとを欲し、同日答書を宗兵衞に與へ、之と同時にまた書を土方雄久に送り、彼を介して利長に勸むるに現下の急に應ぜんが爲、長重及び青木秀以と成を行ひて軍を進むべきを以てせり。宗兵衞の小松に向かひて發途せるは十四日に在るべし。

 御懇札委細令其意候。加賀中納言利長)と御同意可成由滿足存候。斷申越候間、早々御入魂被成、越前表へ御手合尤候。今日[十三日  ]岐阜へ着陣申候。頓而凶徒等可討果候間、可御心安候。恐々謹言。
    九月十三日(慶長五年)                     家   康 在判
      小松宰相(丹羽長重)殿
〔丹羽家年譜〕
       ○

 猶以肥前守利長)殿へも以飛脚申候條、早々被仰談尤に存候。以上。
 又申候。佐州(本多)には先手に被居候間返事無御座候。
 去月二十二日尊書、昨十三日岐阜に於て令拜見候。肥前守殿と御入魂可成由被仰下候。内府別而滿足被仕候。たとへ如何樣の儀御座候共、此時に御座候間諸事御堪忍候て被仰含、旁御手合尤に候。内府は昨十三日岐阜に着陣被申候。則今日赤阪表え被相働候。此面早速可申付候條、其地も無油斷御かせぎ可然存候。貴殿樣御如才無之通、内府に具に申聞候間、可御心安候。頓而於大阪御意候。恐惶謹言。
    九月十三日(慶長五年)                     西尾隱岐守 在判
                              同 藤兵衞 在判
      羽 加 州 (丹羽長重)殿
〔丹羽家年譜〕
       ○

 急度申候。仍自小松宰相方書状差越候之間、爲御披見中納言利長)殿へ進候。此節有御入魂、先々はかゆき候樣に尤候。青木紀伊守(秀以)も内々申越旨候之間、何樣にも中納言殿可談合旨申遣候之間、其方才覺被御入魂候て、早々越前表御手合之事肝要候。今日[十三日  ]至岐阜着陣候。近日凶徒等可討果候條可心安候。恐々謹言。
    九月十三日(慶長五年)                     家   康 在判
      土方勘兵衞(雄久)殿
〔譜牒餘録〕
       ○

 私曾祖父土方勘兵衞・祖父同丹後守、常州佐竹に蟄居仕罷在候所、慶長五年秋關東被御出馬之砌、於野州小山父子共被召出御目見仕、前田肥前守え勘兵衞儀由緒之に付、御内通之御使被仰付、直に加州え罷越、肥前守越前え御手合有之候樣にと、依御諚早速罷越候。其砌從濃州岐阜此御書頂戴仕候。則肥前守同道仕、於江州大津御目見仕。
〔土方氏由緒〕