石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第四節 大聖寺淺井畷二役

利長の班軍は一旦金澤城に入るを目的とせしが故に、小松城攻略の計畫を棄て、無事にその兵を退却せしむるを欲したりき。是を以て八月七日、先鋒の諸將長連龍・同好連・奧村榮明・太田長知・富田直吉・高山長房を御幸塚に遣はして、小松軍の來襲に備へしめ、その夜目ら麾下を率ゐて大聖寺を發し、翌曉木場潟の東を過ぎ、本江・千代を經て三堂山に營し、而して利政は千代に陣せり。御幸塚に在りし諸將はこの夜軍議を爲し、その三堂山に向かひて退却するに當り、遠く東路を取るは敵を恐るゝに似たりとなし、八日黎明今江・大領野を經て淺井畷を過ぎんとせり。松平康定之を難んずれども可かず、遂に隊伍を定めて一番を山崎長徳、二番を高山長房、三番を奧村榮明、四番を富田直吉、五番を太田長知とし、長連龍を殿軍たらしめき。是より先、丹羽長重は、その將江口三郎右衞門正吉をして伏兵を設け、前田軍の過ぐるを待ちて襲撃すべきを命じたりしが、正吉は斥候の報を得て敵の近づけるを告げしかば、長重も亦兵を出して之を助け、連龍の軍の大領野を出で山代橋に向かひしとき、群起して之を討てり。時に夜來の風雨尚止まず、田間の隘路泥濘にして歩行に艱み、硝藥亦濕ひて發炮すべからず。連龍の臣小林平左衞門秀備・沖覺左衞門・堀内一秀軒景廣・長中務連朗・鹿島路六左衞門・八田三助吉信・鈴木權兵衞重國・柳彌平次・岩田新助吉忠・六島少三郎忠雄は苦戰してこゝに死せり。所謂淺井畷の戰即ち是なり。連龍は敗兵を收めて川代橋に赴きしに、太田長知の來援するに遇ひて退くことを得たるも、丹羽軍は尚追跡して橋に至り、川を挾んで長知と對陣せしを以て、長知及び松平康定の部下等こゝに奮戰し、奧村榮明も亦兵を返し救ひしが、兩軍の殺傷相當り、遂に疲憊して互に退却せり。上阪又兵衞之に乘じて丹羽軍に追撃を加へんとせしも、山崎長徳の許さゞるを以てまた止む。時に利長三堂山に在りて朝餐を喫せしが、遙かに銃聲を聞きて戰の起れるを知り、將に使を發して之を偵察せしめんとせしに、會連龍の來りしによりて状を知るを得たり。利長乃ち箸を投じて起ち、直に小松城を拔かんと欲し、利政も亦鑣を並べて進みしも、路にして戰の既に終れるを聞き、三堂山に還りて連龍・長知等の功を賞し、特に好運の勇武父九郎左衞門に勝れるを嘉して、名を十左衞門と稱せしめ、又長徳の戰機を謬れるを譴責せり。十日利長は岡島一吉をして三堂山を守らしめ、自ら金澤に歸城し、次いで野村重猶を江戸に遣はして、大聖寺役以後の戰状を家康に報ぜしめき。十二日又太田長知感状を、松平康定・水越縫殿助・井上長政・岩田盛弘等に感状及び刀劍黄金を贈り、連龍も亦加恩を受く。後萬治三年長氏の九士戰歿の地に碑を樹てらる。碑面にその戰を九日なりと記し、淺井繩手合戰覺書も亦九日なりとすれども、越登賀三州志は成田書等に基づきて八日とせり。從ふべし。

 今度於小松表淺井之在所、一番鑓、其働無比類之條、爲褒美刀・熨斗付之脇指並黄金三枚遣之訖。彌可忠節之事尤肝要候。謹言。
    八月十二日(慶長五年)                     利   長 在判
      松平久兵衞尉(康定)殿
〔拾遺温故雜帖〕
       ○

 今度於小松表淺井之在所鑓、其働無比類之條、爲褒美熨斗付之脇指並黄金三枚遣之訖。彌可忠節之事尤肝要候。謹言。
    八月十二日(慶長五年)                     利   長 在判
      水越縫殿助殿
〔拾遺温故雜帖〕
       ○

 今度於小松表淺井之在所鑓、其働無比類之條、爲褒美熨斗付之脇指並黄金三枚遣之訖。彌可忠節之事、尤可肝要者也。
    八月十二日(慶長五年)                     利   長 在判
      岩田傳左衞門(盛弘)殿
〔拾遺温故雜帖〕
       ○

 加州兩郡之内を以、千石之所令扶持訖。全可知行之状如件。
    慶長五年八月十七日                 利   長 在判
      長 九郎左衞門殿
〔長家文書〕
       ○

  尚々ようの事候はゞ何にても申こさるべく候。
 二三日は不申承候、こんどは長九内(連龍)うちじに、誠に我らようにたち申候事に候間、まんぞく申候。此由長九九へ申し可給候。又々のぼりぎぬ十疋まいらせ候。何にてもようの事、心おかれず申こさるべく候。以上。
    八月廿五日(慶長五年)                     む   ひ(羽柴備前守利長
      長 十左(好連)どの                よ  り
           參
〔長家文書〕

長好連前田利長書翰 男爵長基連氏藏

 
 
       ○

淺井畷古戰場 在能美郡苗代村