第二章 加賀藩治創始期
第四節 大聖寺淺井畷二役
今案ずるに、利長の班軍せしはさまで不可思議の行動にあらず。初め利長の家康より與へられたる任務は、越後の諸將を率ゐて津川口より會津に侵入し、以て上杉景勝を討つにありき。之を以て利長はその北進せんとするに先だち、後顧の憂を斷たんが爲丹羽長重と和を議せしが、長重之を容れざりしを以て、已むを得ず先づ長重及び山口宗永を屈服せしめんと欲し、七月二十六日金澤を發したりき。この時利長が、大聖寺城の攻略を先とし小松城を後にせんとしたるもの、その意の南上にあらずして、國内平定の後直に歸城し、當初の目的を遂行せんとするにありたるを知るべし。この時家康は上杉氏を討たんが爲、既に下野の小山に入りたりしが、上國の形勢に鑑み、景勝征討を止めて直に東海道に向かふの必要を生じたるを以て、彼は土方雄久を常陸より招き、加賀に使して利長の會津進撃を停め、更に沿道西軍の諸侯を掃蕩して、美濃・尾張に來會すべきを命じたりき。然りといへども、家康がこの命を雄久に傳へたりしは七月二十四日に在りしを以て、利長の金澤を發せし二十六日には尚之を知らず。恐らくは八月五日金津に次せしとき、初めて雄久によりて家康の命に接したるなるべし。雄久の家康に招かれしよりこゝに至るまで十二日を算し、その行程の將にかくの如くなるべきを考へらる。かくて利長は既に濃尾に出陣するの命を得たりといへども、家康の江戸に歸りしは八月六日に在るを以て、當時直に南上するは時機尚早きに失するものあり。况や背後に小松の強敵を殘して深く南越に入るは、決して策の得たるものにあらざるに於いてをや。是を以て兎にも角にも一たび金澤に歸り、時局の變動に處すべき新方策を定めんとしたるなるべく、家康も亦利長が大聖寺攻略の後歸城せることを報じたるに應へて、『先々小山(尾山)まで御歸陣之由尤候。』といひて同意を表し、毫もその班軍を難詰せざりしなり。而してこの退却が、越後の堀秀治に對して叛徒の蜂起したるを以て、之が鎭定の爲に援軍を發せんとするにあるを表面の理由としたることは、後九月十五日に秀忠が信濃より利長の老臣横山長知に與へたる返書によりて、明らかに之を知るを得べし。
被レ入レ念、大久保加賀守・本多佐渡守所迄來札、令二披見一候。然者中納言(利長)殿、北國筋爲二御仕置一、加越之境御出馬之由、得二其意一候。此表仕置等丈夫申付候。猶兩人かた〓可レ申候。恐々謹言。 八月八日(慶長五年) 家 康 在判 太田但馬守殿 横山大膳亮殿 山崎長門守殿 〔北徴遺文〕 其表御存分之由承、目出度存候。彌其元御陣之樣子承度候而、以二使者一申入候。此方之儀も、各々令二談合一、美濃口へ可二罷出一存候。雖二不レ及レ申候一、何分にも無二聊爾レ樣被二仰付一尤候。猶使者口上可レ申候。恐々謹言。 八月十三日(慶長五年) 家 康 在判 加賀中納言殿 〔拾遺温故雜帖〕 一、北國之儀、羽柴肥前守(利長)殿、被レ對二内府一、毛頭別條無レ之候。賀州之内大勝(聖)寺之城に罷在候山口玄蕃、別心之衆与致二一味一候間、即肥州彼地え被二取懸一責崩、山口父子被二討捕レ候由注進御座候。越前之内木目峠え構レ城、此方よりの一左右次第、是も江州へ可二相働一之由候。如レ此之上は、京都如二存分一可レ被二申付一儀不レ可レ有レ程候。(前後略) 榊原式部大輔 八月廿二日(慶長五年) 康 政 在判 秋田藤三郎殿 御 報 〔慶元古文書〕 其許無二心元一存候而、度々以二飛脚一申入候處、御注進状本望之至候。殊に大正寺(聖)被二乘崩一、始二山口父子一數多被二討捕一候由、潔ぎ御事候。先々小(尾)山まで御歸陣之由尤ニ候。猶期二後音之時一候。恐々謹言。 八月廿四日(慶長五年) 家 康 在判 加賀中納言(利長)殿 〔北徴遺文〕 猶々われら久々文かき不レ申候へ共、まんぞく申事候間自筆にて申入候。 今度はひぜん(肥前)殿、かゞ國大しやうじおもて御はたらき、御手がらの樣子申來、ちうせつと存候。一入〱まんぞく無二申計一候。此上はほつこく之儀きりどりニ進せ候。此よしはうしゆゐん(芳春院)殿へよく心得御申候て可レ給候。其方もなが〱くろうとぞんじ候。やがて上方御きりなびけ、はうしうゐん殿御迎まいらせ候べく候。めで度。さし。 八月廿六日(慶長五年) 大 ふ(内府) 在判 村井ぶんご(長頼)殿 〔能美江沼聞書〕 |