石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第四節 大聖寺淺井畷二役

宗永・修弘父子の遺骸は、後に大聖寺福田橋の側に葬らると傳へ、その菩提所たりし全昌寺に在りては、宗永に大雄院吹毛機鋒大居士、修弘に英賢院恭温良雄大居士と諡せり。宗永はもと山城國葛野郡下山田の人にして、同國綴喜郡宇治田原の城主たりし山口勘助秀景の子なり。秀景曾て京師の誠心院を再建す。是を以て誠心院にも亦宗永・修弘の供養碑ありて、前者を松元庵珍山宗永大居士、後者を吸江院玄庵宗龐大居士といへり。宗永の弟勘右衞門宗春は宗永と共に自刄せしが、遺子七郎右衞門宗張長じて結城秀康の子松平直政に仕へ、長く松江藩士としてその統を傳へたりき。

 北海先生按るに、能美江沼退治聞書に、山口父子の塚は福田橋の道の左右に有といへり。大聖寺古老の申傳へは、今ある石塚を山口父子の首塚なりといふ。則是なるべし。聞書に道の左右とある事、父子を分て左右にしたるやうに見ゆれども、左には有まじ。父子一墳に今の處なること相違あらじといふ。是今田中屋六左衞門隣の屋敷後の軒下に在り。始此處に大きなる松の木有。此松は田中屋六左衞門出火之節燒死す。以前此處に堀口傳左衞門居住之由。此人居候時は.右之塚に大松ありて、是を露地に取一段高くして、毎年七月は火を燈されしと也。當時は如此にありしが、いつしか商家の地になりて、軒下の處に聊の石を數十集めよせて、其名ばかりにて勿論引地にもならず。則吾等二十ばかりの時分行て見たり。其後山口父子の二百回の年忌に當り、實性院方丈に被仰付、此墳所にて誦經ありて供養あり。此時より棹引の地になり、今は聊の柵を振、古城とも見る程なり。
〔秘要雜集〕