石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第三節 前田利家の晩年

利家がかくの和ぐ學問にも遊藝にも長じたりしことは、攻城野戰の功を誇る外何等の能なかりし當時の武將中にありて、實に鷄群の一鶴として見るべく、漸く干戈を戢めて奎運の隆昌を期しつゝありし秀吉の伴侶として、他に匹儔を求むること能はず。特に利家が理財の途に長じたりしことは、最も能く藩政の上に顯れたるのみならず、文祿五年(慶長元)伏見震災後、應急の建築材料として多量の竹釘を要したりしとき、之が製作に農民を使役せずして、有閑階級たる僧徒に命じたる如きは、その手腕の非凡なりしを察すべく、特に夙く領内寳達山金坑を開鑿したりしを以て、府庫常に充實し、戰爭突發の際に當りても悠然として之に處することを得たり。利家の地位はかくの如く、平時に於いても、戰時に於いても、常に優秀なるものありしかば、加藤清正・蒲生氏郷・宇喜多秀家等の猛將、皆赤心を傾けてその膝下に雌伏し、世の秀吉百歳の後に於ける天下の覇者を論ずるものをして、利家をその人なるべしと揣摩せしむるに至れり。

 急度申遣候。仍能州國中へ申付、なわをなわせ、くじ船にて鶴加(敦賀)まで早々可上候。能州てら〲へ竹を被渡、くぎをけづらせ、是亦出來次第になわぶねと一所に可上候。伏見の作事たいさう成事、不是非にも候。萬事打置、竹くぎ・なわの事可申付候。不由斷候也。
    文祿五後七月十五日                 利   家 印
      藤 兵 衞(三輪)殿
      久 兵 衞(大井)殿
〔三輪文書〕
       ○

 或時蒲生飛騨(氏郷)殿にて、肥前(利長)殿・長岡越中殿・上田主水殿・戸田武藏殿、其外二三人御參會候而、其比此衆參著の時に雁汁を喰可申由にて、人まぜずに人事浮世を御物語御慰に候。色々御物語の上に、此後は誰が天下をとるべきと御さん談候時、飛騨殿御申候は、此後は、肥前守をさして、あの人と御申候。肥前殿、何事を飛州は御申候やと御笑候へば、皆々如何と被存たる躰候。其時飛騨殿御申は、各も合點ゆかぬか、又肥前殿も心得ぬかほいかゞ。其いはれ可申候。自然の儀あらば、今程利家卿のけて覺えの者誰か有之。其上北國三ヶ國大納言殿御取候故、迄は路次すがら足にさはるものなし。西國は備前中納言殿御入候而、毛利家自然出候者可御押。最早家康計に候。家康打立上洛仕候者、此飛騨守即時にくひつき、箱根を一足も爲越申間敷候間、其分別して何茂御覽候へ。但又上方に何茂居ながら事あらば、猶以利家卿一味多候間、是等を思案して見れば、此後は肥州天下取之由御申候へば、いづれもの衆、飛騨守殿御申分尤々と感被申候由。その時利長殿は、又候哉飛騨殿のざれごとにあきはて候よし御笑候由御座候。上下殿樣をふかく見申候。飛騨守殿咄衆仙石徳齋參候而、利家卿へ右之通御咄申候へば、世上へ聞ゆるにと思召たる躰にて、にが笑になされ候而被御座候事。
〔利家夜話〕