第二章 加賀藩治創始期
第三節 前田利家の晩年
抑利家の秀吉に於けるや、義は君臣にして情は朋友の如きものあり。是を以て秀吉の利家を待つこと常に甚だ厚く、參内に、物詣に、酒會に、茗讌に、遊山に、散策に、苟くも秀吉の往く所、利家の必ず之に隨ふこと、實に影の形に伴ふが如くなるものありき。秀吉亦屢利家の邸に臨みたりしが、就中文祿三年四月八日彼が京都に於いて公式の訪問を試みし時の如きは、公卿牧伯盡く之に隨ひ、最も儀衞の莊重にして饗宴の善美なりしを見るべし。利家亦秀吉の斡旋によりて荐りにその官位を進められ、天正十四年三月二十二日從四位下左近衞權少將となり、その年十二月十九日秀吉の太政大臣に任ぜられ、豐臣氏を賜はりし際には、利家も亦秀吉の命によりて豐臣氏を冐すを許され、十七年には左近衞權中將となり、十九年には參議となり、文祿三年正月五日從三位に叙せられ、同年四月七日權中納言に進み、慶長元年四月從二位權大納言に昇り、二年三月十一日清華に准ぜられき。而して利家の官位尚家康の下に在りといへども、秀吉が舊事を談ずるときには、必ず利家を先にして家康を後にせり。かくの如き殊遇に對しては、利家も亦誠心誠意を傾倒して報ゆる所あらんと期したるなるべく、文祿三年十月秀吉の伏見に數寄屋を構へんとしたる時には、利家躬ら畚を荷ひて役夫を鼓舞するに至れり。彼が秀吉の爲に力を致すや、その地位を思ひ、その威嚴を粧ふの遑なかりしを見るべし。利家の伏見邸が秀吉の居城に隣りし時、秀吉は城樓に上りて明月を仰ぎ、利家は庭前に在りて清光に浴し、濠を隔てゝ互に戲言を弄したりしといふもの、是豈尋常君臣の關係ならんや。
太閤樣座敷にても、御雜談・昔物語、其外信長公の御時代の御咄なされ候にも、必ず先づ大納言・内府と、大納言を先に仰せられ候御詞は、此上に重ねて一國下され候より忝き次第、御加増にも替へ申すまじと、御機嫌の時仰せられ候。 〔利家夜話〕 伏見城下宇治川を、大納言(利家)樣・肥前(利長)樣へ川せきを被二仰付一候。宇治川をせき切事、末代の聞えの爲と御滿足被レ成候。(下略) 同後日に、後の代の聞えの爲とて、土俵を大納言樣御自身御持被レ成候。御相手は齋藤刑部、二かへり持、肩いたきよしにてしほらしくころび申候。事外御機嫌能御笑被レ成。扨長九郎左衞門内鈴木と云もの、是も六十計のものなるが、御相手に成持申候。(中略)。其夜上(利家夫人)樣、扨も大納言(當時中納言)の位にてもつかふ御持候はと御笑候へば、宇治川をせき切事古今なき故、大納言土籠持申と御たはふれ被レ成候。其時孫四郎(利長)樣も土籠御持候事。 〔利家夜話〕 |