石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第三節 前田利家の晩年

是に至りて四海の内、秀吉の命に服せざるもの、唯小田原の北條氏直、米澤の伊達政宗以下東北の數侯伯ありしのみ。秀吉即ち先づ小田原を略せんと欲し、天正十七年十月十日命を諸將に傳へ、明十八年三月を以て出征の期となせり。是を以て利家は、前田安勝・村井長頼・前田長種をして尾山城に留守せしめ、二月十日には先鋒を出し、二十日に至りて利家利長父子本隊を率ゐて東山道に向かふ。三月朔日秀吉自ら京師を發し、十六日利家をして北陸七國軍總督たらしむ。越後國主上杉景勝松任城主丹羽長重・佐姊城主木村重高・上田城主眞田昌幸等之に副たり。同月下句利家等碓井峠を超えて上野坂木に進みしに、松井田の兵その優勢なるを見、戰はずして城に入る。利家等城を去ること一里の地に陣し、守將大道寺政繁を招降せんとせしも、政繁は之を肯んぜざりき。因りて廿八日攻撃開始せしに、政繁善く拒ぎしを以て、先づ長圍の策を取り、四月十九日に至りて諸軍齊しく突貫せり。時に利家の部將長連龍奧村永福・山崎長徳等は東南より迫り、景勝の兵は西北より進み、水道を斷ち、火を櫓樓に放ちしに、政繁は途にその支へ難きを知り、二十日降を納れ二子直重を質とせしを以て、宥して先鋒に屬せしめき。二十一日利家武藏松山城を攻めしに、城將上田朝廣は小田原城に在りて、部將難波田憲次・木呂寺友則等之を守りしが、亦降を請ひしを以て先鋒に編せり。五月利家關東總督に任ぜられ、十九日景勝と共に同國鉢形城を圍む。時に鉢形城の留守井上參河等善く戰ひしが、六月十四日に至りて城を開き、而して城主北條氏邦は小田原より馳せ至りしも及ばずして降を乞へり。次いで同國八王寺城に向かひしに、城主北條氏照は小田原に在りしも、部將横地吉信は本丸を、中山家範は中丸を、狩野一庵は三丸を、金子家重は金子丸を、近藤助童は山下曲輪を固守し、儼として反噬の勢を示せり。是に於いて六月二十二日利家・景勝は上・武二州の降人を嚮導たらしめ、兵一萬五千を率ゐて横山に抵り、二十三日未明街端を突破して悉く番卒を戮し、降將大道寺政繁の一隊は山下曲輪に、上杉軍は城東の大手に、前田軍は城北の搦手に迫れり。この日大霧溟濠咫尺を辨ぜず、爲に城兵は敵の近づきしを曉らざりしかば、助重は不意を撃たれて死し、山下曲輪先づ陷れり。次いで前田軍先鋒山崎長徳は、金子丸を破りて家重を殪し、長連龍奧村永福の兵と共に中丸に進みしに、中山家範精兵三百を以て防戰最も努めたりき。時に上杉軍は三丸を攻撃して一庵を殪し、本丸に肉迫して亦之を拔けり。本丸の將横地吉信は、一たび虎口を脱れたりといへども、後土寇の爲に殺さる。かぐて本丸も亦既に陷りしが、家範は獨り屈せず、僅かに左右十數人を從へて尚奮鬪せり。利家その壯烈に感じ、降人の家範に親しかりしものを求め、之を介して招致せんと謀りしが、使者の至りし時は既に家範の自刄したる後に在りき。この役攻圍軍の斬馘する所一千餘級。利家等その首級と俘虜三百餘人とを小田原の陣に送りて秀吉に獻ぜり。八王寺の攻撃に關しては、前田軍の中、今石動の城主前田利秀、從臣村井長次・篠原一孝・富田重政等最も戰功あり。武者奉行野村傳兵衞以下二十八人之に死し、利長の率ゐる所も亦死傷その半に達したりといへば、如何に戰鬪の激烈なりしかを知るべし。蓋し利家は松井田・松山・鉢形等の諸職に、常に招降綏撫を主とせしかば、他の秀吉に讒を構ふる者あり、秀吉も亦之を寛大に失すとして悦ばざりしが如く、爲に利家をして一猛撃を加へて嚴霜烈日の手腕を示さしむるに至りしなり。この間の事情は、翌年三月秀吉利家に與へたる手書に、『去年松枝・八王寺之手柄、人口により染々禮も不申候。』といひ、而して今はその意の解けたるを示さんが爲に、利家の官を進めて參議たらしめんとしたるを以て之を推知すべし。

  返々、てがらすいりやうのほかに候。のち〱も聞およばれ候はん間、早々申候。われ〱物も、半分ておひし(死)人候。
 わざと申候。八わう寺と申しろ、昨日[廿三日  ]とりかけ、本丸までせめほし候て、くびかず三千よとらせ候。其方のしん六(有賀秦六直治)につけをき候物、いづれもくびをとり申候。てがらどもにて候。くわんとうにてのてがら、すいりやうのほかに候。さし。
    廿四日(天正十八年六月)                     孫   四(利長
      ゆ  う  か(有賀有賀齊)
            參
〔薫 墨 集〕
       ○

 去七日之書状、今月[廿二  ]到着令披見候。八王寺之儀、一刻に攻干、如存分申付候。然共名城故、討死手負無際限候。彌七郎事不是非候。心中令推量候。我々父子目之前にて、馬廻小姓共碎手候間、更無後悔与可分別候。此表悉屬平均候間、近日可歸陣候。謹言。
    七月廿二日(天正十八年)                     利   家 在判
      三輪藤兵衞殿
〔遺編類聚〕
       ○

 先度上洛之刻は、早々對面申候。去年於關東松枝・八王寺之手柄共、人口により染々と禮も不申候。其方儀を宰相に位も揚可申候間、可其心得候。何事茂近日面之時分可申承候。恐々謹言。
    三月十九日(天正十九年)                     秀   吉 在判
      羽柴筑前守利家)殿
            參
〔拾遺温故雜帖〕