石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第二節 越中平定

秀吉越中討平の事を終へて歸るや、四國・北陸の兩役に於ける諸將の功を論じ賞を行ひ、十三年九月十一日利家羽柴筑前守の號を讓り、利長にも羽柴氏を冒さしむると共に加封するに越中礪波・婦負・射水三郡を以てし、次いで肥前守に任ぜり。秀吉の書翰は自筆を以て之を認め、懇切丁寧を極め、一言一辭盡くその肺腑より出でたるを見る。利家是に於いて秀吉配下の長老たる地位全く確立し、加賀藩は北陸の雄鎭となる。

 自筆にて申入候。近年内藏助度々國ざかひへ人數を出し、ことにすへもりのしろ過半せめおとすところに、貴殿父子(利家利長)さつそくうしろぜめ有により、大利えられ、其後越中はすぬまへ兵を入、やきはたらきしててきをうちとり大てがらのよし、上方へもせこへ候てこゝちよくおぼえ候。なりまさはひやうりものに而、にあはざる事おほく候。此度きつとせいばいとげんと存じ候へ共、御本城(織田信雄)どのいろ〱わび、其上入道に成申うへは、其身も今はがてん仕やとたすけ、新川一郡あたへ候。殘三郡は貴殿へまいらせ候。去ながら、度々ほね折、やりさきに而取申され候。いさ、かほうみとおぼしめすまじく候。此方よりも、ほうみとも不存候。つね〲の御禮には、我等名みやうじともにまいらせ候間、向後はまへ田又ざへもんをかはり羽柴筑前守と御名のりあるべく候。尤息孫四郎義も、羽柴と可申候。その方にもおとりなく、度々てがらども承及候。然者越中三郡孫四郎宛所に折かみとゝのへ候へども、もししよもうに候はゞ、いかやうにも其方望次第に候。將又貴殿しやきやう藏人入道ならびに魚住隼人、むかしより能ぞんじの人に候。末もり・はすぬまの時もかなざわ城代に被居候ところに、神妙のてい是又うけたまはり候。老の武篇にて候。さて又まへ田うこん・不破彦三・村井又兵衞、度々のほね折ども感入候。能登におかれ候前田五郎兵衞・長九郎左衞門・高ばたけ孫二郎・中川清六、別て御てまへえ心入のよし、きどくに候。いづれも勇者のものどもに候間、眞實頼もしく候。おく村父子ことはたび〱如申、すゑもりにて大手がら、われ〱迄まんぞく申候。何も御こゝろえ候て、禮を申まいらせ候。なをあさの彌兵衞口上に申のぶべく候。恐々謹言。
    九月十一日(天正十三年)                     秀   吉 在判
      羽柴筑前守どのへ
〔袂  草〕