石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第二章 加賀藩治創始期

第二節 越中平定

世本或はいふ。秀吉金澤を去るに臨み、利家の第三女摩阿姫を得て之を伴へり。摩阿姫は先に利家勝家に質とせしもの。天正十一年勝家の滅亡に際し、その乳母擾亂の隙を窺ひ、共に遁れ歸りたるなり。摩阿姫今年齡十四、後秀吉之を側室とす。加賀殿と稱せられしもの即ち是なりと。然れども秀吉が十三年閏八月摩阿姫を携へ歸りたりとするものは、左記交書の存在によりて疑なき能はず。思ふにこは秀吉侍女の發したるものにして、その『さだめてきやう中けんぶつにひまいり云々』といふは、摩阿姫が初めて上洛せしを秀吉大坂に在りて待望に堪へざるの意を現すものとすべく、五月廿七日の日附は恐らくは十四年に在りと考ふべし。加賀殿多疾、初め聚落第の天守に在りしが、後利家の聚落邸又は伏見邸に住し、慶長三年三月秀吉の醍醐の觀櫻にも尚從ひしが、次いで暇を得、又大納言萬里小路充房に嫁し、更に離別して金澤に歸り、十九年十月十三日享年三十四を以て歿す。

  かへす〲、ちくぜん内へ事づてのよし可申候。
 一日はぎりの文給候。さだめてきやう中けんぶつにひまいり候についてとおぼしめし候へば、うらみとも存不申候。さし。
    五月廿七日                    で ん か さ ま
      ま あ め の(めのとカ)
〔保坂氏文書〕