第二章 加賀藩治創始期
第二節 越中平定
成政の降伏以後に於ける秀吉の行動は、大村由己の記する所によりて極めて明瞭なり。即ち閏八月朔日彼は陣を芹谷野に轉じ、二日富山城を巡視し、三日には呉服山に於ける利家の茗宴に請待せられ、四日五日國中を綏撫してその掟を定むといへり。是に至りて六日軍を旋して礪波山に向かひ、七日金澤城に入りて、利家の一族利久・安勝・秀繼及び重臣村井長頼・不破勝光・長連龍・高畠定吉・中川光重等に物を賜ふこと各差ありき。この日、秀吉又書を裁してこふ及び本願寺に送れり。こふとは北政所の侍女なるべく、秀吉が夫人に與ふる書状を侍女の宛名としたるなり。
廿五日廿九日の御ふみ、一どに見なく。このおもての事、くらのすけ、色々なげき候まゝ、くにをめしあげ、いのち迄たすけ、あしよわどもまでも、こと〲く昨日はや京までさしのぼせ候。かんにんぶんすこしとらせ候。と山のしろをも、こと〲くわらせ候。ゑつちうをば、又ざへもん(利家)につかはし候。はやひまをあけ候まゝ、とやまよりきのふとなみ山までむまをおさめ候。けふはかなざわへこし申なく。ゑちぜんきたのしやうには四五日とうりう候て、くにのおきめなど申つけ候て、十四日ごろには大阪へかへり候はんまゝ、こゝろやすかるべく候。又きあひもよく候。ふみをばめち(マヽ)ととろく候まゝ、かゝせ候てこしなく。めでたくさし。 壬月七日(天正十三年) 朱 印 こ ふ ひ で 吉 〔北徴遺文〕 |